黒鳥と仮面のワルツ X



彼女の世界は常に二つに分かれた。

意味のあるものと無いものと。それはとても簡単で明確な線引きでもあった。白と黒で構築された 視界は平面的で、舞台の上から見下ろす観客席でさえただの升目に見える。歓喜に打ち震えて狂っ たように手を叩く彼らは統制の取れていないマスゲームのようであったし、後ろに控えた群舞は、 予め動きが決まった――バレエなのであるから当たり前なのだが――ただの人間達だ。

存在していることに意味を求めるほど無粋なことはなく、だからこそ無意味だった。よって彼女は 何もせず、ただ眼前に広がる現実を見ているだけだった。ゼロかイチかで構成されている世界に何 かが入り込む余地は皆無であった。

チーズを食べればチーズの味がする。ホットワインを飲めば熱い。ぶつければ痛い。ピエロを見り ゃ面白いし、夕暮れを見れば胸に迫るものがある。

それだけだった。




女は表情の無い顔のまま読んでいた手紙から視線を外した。片手で器用に、複雑に折り曲げてゆく 間も、冬の夜風は頬を撫ぜ髪を玩んで通り抜けてゆく。眼下に広がるパリの夜景は美しく、<オペ ラ座>の屋上に突っ立っている彼女は黒子のようにそこにあった。

内容は大したものではない。ただフランス語を羅列しただけの文章を載せたまま、女は出来上がっ た紙飛行機を空中に放り投げる。白い市販の紙は一瞬強い風に乗ってふわりと舞い、あとは重力に したがって緩慢に、そして不規則に消えて行った。


「随分とひどい仕打ちをなさるものだな」

「・・・・・・」

「自分の<親>からの手紙だろう?」

「顔も見たことのない<親>にどうしろというの」


彼女は背後に現れた気配に気付いていたが振り返りもせず、一定の方向に視線を定めて息を吐いた 。吐息が白くなってからもうどれくらいだろうか。気がつけば朝に霜がおり外の水桶には氷が張っ ている時期になった。それでも、彼女が起きて何かを食べ踊り、一息ついて踊り、そして眠る日々 に変化は無かった。箱の中から、この巨大な<オペラ座>という箱の中から外は切り離されていて 、取り巻くものは全て時間に拘束された自然でしかなかった。

ほとんどの「プリマドンナ」と呼ばれる人種にはパトロンが存在している。そのパトロンの権力い かんによっては役や出演する演目が左右されることも少なくない。良い者に認められ支援されれば 、出世と成功の街道を両手を振って歩めるが、その逆となれば地獄のほうがまだましだという状況 に陥ってしまう。こればかりは自分の目と運を信じるより他無かった。


「産みの親なら、とっくにとんずらこいてるはずよ」


彼女もその例外ではなかったが、その性格が災いして一定の人物が常に背後に控えているというわ けではなかった。そして、その生い立ちが外部にただ漏れになる。そうすると「お前をあの時捨て たのは」から始まる、涙がなくしては語れぬような話を書いた手紙が届くようになるのだ。全て、 手紙の結びは「会いたい」となって。


「どこで何してるかなんて興味もないわね――野垂れ死にしたか、ひっそりと生きているか、何で もいいわ」

「・・・・・・冷たい女だな」

「なんとでも言ってちょうだいな」


女は軽く肩をすくめた。

<オペラ座>で今一番のバレリーナ、その彼女は幼い頃捨てられたのだという。そんな話が美化さ れて外部の貴婦人やらよからぬことを抱く金持ちの耳に入れば、その先は想像に難くない。それだ けならまだいいが、厄介なのは中産階級以下の人間の耳に入ることだった。一度捕まえたら最後、 文字通りたかって骨の髄までしゃぶりつくすような金の無心がくるだろう。


「お前は面白い・・・・・・本当に面白い女だ」

「それはどうもありがとう」


揶揄を含んだ言葉に眉一つ動かさず、彼女はずり落ちたマフラーを首に巻きなおした。部屋着の上 からローブとマントを着込み、マフラーをしていても夜気は冷たさをもってあちこちから侵入して くる。腹の底が冷えて震えがきた。


「貴方も十分、面白いと思うわ」

「それは光栄の至り、だな」


そこでようやく振り返れば見慣れた影が笑っている。にいと口元を歪ませただけの、皮肉った笑顔 だった。身のこなしはとても上品で洗練されているくせに、まとう空気はまったく真逆のものであ る。この世の全て、見るもの全部に倦んだような瞳を投げかけながら、仮面を外さない。

ダーシャがであった青年が<フェアリー>だというのなら、自分がであった青年は<トリックスタ ー>――この言い方では何かしっくりこないが――だろう。

北欧の神話に登場するロキのような。


「人の一生なんてあっけないものね」

「お前の一生だってあっけないさ」

「終わるときが来るのはいつかしら」

「さぁな。だが、今ここで終わることも出来る――其の柵を越えて、一歩踏み出せばそれで終わる」


どうせ出来ぬだろうと言外に含ませた物言いだった。女はちょっと眉をしかめて男を睨んだ。透き 通った空気は夜のしじまを際立たせて、広がる星空は自然だけがもたらす美しさを見せていた。割 れるように寒い気温は、この男と話しているこの瞬間、感知しない。

臙脂のマントを纏った影は、平面に見える彼女の世界で数少ない、立体に見える影の一つであった 。そのほかの人物が薄っぺらい厚みのない紙人形に見える最中にあって、彼は色を持って見える。 銀色の髪に黒い仮面。綺麗なラインを描く身体から発せられる空気は硬質なものを含み、圧倒的な 存在感でそこにある。


「だが――お前はそういう女じゃあないな・・・・・・?」

「何が言いたいの」

「逃げることすら知らない女だ」

「――褒められているのか貶されているのかわからない言い方ね、相変わらず」

「どうとでも?」


女が息を大きく吐き出した。それは紫煙と気温があいまって、黒い空気中に吐き出される魂のよう にも見えた。男は離れたところから皮肉に笑ったままだ。ひときわ強い風が吹いて、彼女の唇に咥 えられた煙草の火が、一瞬、ぽうっとなった。


「時間ってのはとても不思議なものね」


ポツリと零れた唐突な言葉にも、男の影は動じた様子がない。むしろ、じっとその続きを待ってい る。


「初めて会ったときからあの人はあたしのマエストロだった。マエストロがマエストロになる前の ことなんて、考えたこともなかったわ」

「・・・・・・」

「でも、彼が生きてきた時間があって、今があるのね。その時間を歩んでいなければ、あたしはこ こにはいないのね」

「・・・・・・」

「とても不思議だわ」


どこかに視線を定めた女は男からの返答があろうが無かろうが言葉を続けてゆく。誰に聞いて欲し いというわけではなかった。ただ、自分の中に生まれた知らないことを一度外に吐き出したかった だけだ。問いかける口調でありながら、自分で確認している。そんなかんじだった。

男の影が一歩、また一歩とこちらへ近寄ってくる。柵にもたれた女の隣に静かに並んで、同じ青い 屋根の方向を見た。紫煙の匂いが鼻について、彼がつけているのであろう香水の匂いが香った。

意味のあるものが意味のあるものになるまで、意味の無いものが意味を失うまで、そう定義される までに何かしらの事件がある。目の前に放り出された事象は自分で判断するしかないし、過去にい たっては推して測るしかない。だが、それがそこにあるまでには必ず過程と言うものがあるのだ。

それが無いものは――この世に存在しないものだ。

そう、砂の一粒だって、塵のひとかけらだって、砂になるまでの過程がある。塵になるまで、塵に なるための手順を――こう言ってしまうとどこか滑稽なのだが――踏んで塵になる。


「気の遠くなるような、眩暈のする話ね」

「・・・・・・あぁ」


ちょっと苦笑の混じった女に、彼はひどく簡潔に頷いただけで終わった。

夜は何事もないように夜になっていた。空は藍を深めた色合いに星をちりばめているし、地上はそ こに人間の活動を示す光をちりばめている。風は姿と質量を変えてどこへでも吹き抜けてゆくし、 木々は、全てを見つめながら春を待つ。

箱の中から見る世界は、とても広くて深い。


「けれど、とても尊いと思うわ」


女の言葉に、影が少し笑った気配がする。


「お前でもそう思うことがあるのか」

「失礼な人ね」


女は紙巻煙草を地面に落とし、つま先で踏み消しながら不意に湧いた疑問をそのまま口にした。

問いかけられた影は仮面の下から女を見つめ返しながら言う。


「貴方は――どんな時間を歩んできたの?」

「さぁな」


影の纏ったマントがはためいて、女のローブが揺れた。仮面の下で、彼は一体何を見てきたのだろ うか。箱の外の世界で、何を感じて心を育ててきたのだろうか――彼の見る世界は、どんなものな のだろうか。

女は未だに、彼の名前を知らなかった。












そういえばこのチモリは二十歳だった。
終わりの気配が見えてこない。どうしたものか