黒鳥と仮面のワルツ W



「不思議な男に出会いました、マエストロ」

「お前は意固地な女だねぇ。私はもうオペラ座のダーシャではないよ。その呼び方は止めなさい」

「いいえ、マエストロ。貴方はいつまでも私のマエストロですよ」


暖炉の前で老人と女が話している。老人の足元にはこれまた老いた大きな犬がうずくまっており、 時折ぱちんと薪がはじける音に耳が動いた。安楽椅子にゆったりと体を預け、膝かけをかけている 男――彼こそが現在の<黒鳥>を形作ったと言っていいだろう。

白髪が抜け落ちた頭には大きな染みが浮いていて、それでも顔立ちは整っており若い頃が容易に想 像できた。そして、一度膨らんだ風船が中身の空気を抜かれたあとのように、全身にシワが――た るみと言ったほうがいいのだろうか――見て取れる。青い瞳を囲んでいる白目は、多くの老人がそ うなるように黄ばんでいるものの、視力はしっかりとしているようだ。独特な柔らかな笑みは孫娘 に向けるそれそのもので、眼差しは穏やかだったが、どこか薄ら寂しさを感じさせるものでもあっ た。

対して女は手にもったカップに口をつける様子もなく、ちろちろとレンガを舐める暖炉の炎に視線 を注いでいる。その横顔は凛としていて引き結んだ口元の赤が一層映えた。黒い髪をした、がりが りの棒切れのような少女はいつの間にやら成長し、バレエを演じるにふさわしく長い手足を持って いた。

言えばどんな役柄も演じられる実力を持っている。

一度舞台に立てば観客を惹きつける華を持っている。


「それで?不思議な男というのはどんな男だね?」


まさかお前のいい人じゃあるまいねとダーシャは笑いながら続けた。その言葉に軽く笑みを返した だけの女は、やはり軽く笑ったままの面持ちで首を振る。


「姿形はとても綺麗です。目も確かですね」

「へえ、それから?」

「仮面をしている男です」

「仮面?どんな?」

「顔の右半分を覆っていて、黒い、煌びやかな。銀色の髪をしているのですが、良く映えています」


紅茶はもうすでに湯気を立ててはいない。新しいものと取り替えようと使用人を呼びかけるも、彼 女はやんわりとそれを制した。窓の外にある木はほとんどの葉を落とし、木枯らしが枝の間を強く 吹き抜けていくのが分かる。空からいつ白いものが降ってきてもおかしくはない曇天は壁一枚向こ うに広がっていた。

枯れ木はおとぎ話に登場する魔女の手のように空に向かって伸びている。例え見た目が乾いたもの であっても、一皮剥けばみずみずしい生命力に満ち足りており、春を恋焦がれてじっと待つ。ガラ スを叩く音にパチンと薪がはぜる音。楽器は無くても音楽はすぐそこにある。


「見てみたいものだね」

「え?」


しばし降り立った沈黙を破ったのは、ダーシャの意外な一言だった。一瞬瞠目して彼を見れば、空 中に視線をさ迷わせてどこか遠くを見ている。壁にかけられた絵の中、暖炉の上に置かれた絵皿の 中、目に映る全てのものに記憶を頼っているようだ。


「私も一度、不思議な出会いをしたことがある――」

「マエストロ?」

「昔話をしてあげよう、私の可愛い弟子に」


ぱちんと音が聞こえるかのように、彼は片目を瞑って見せた。




ダーシャ・フレデリック・ルビンスタインはヨーロッパで名の通る振付師である。

若かりし頃、その容姿もあいまってフランスといわずドイツといわず、彼の上がらなかった舞台は ないといわれるほどだ。しかし、名声が名声を呼び、名誉が富を生み出す最中にあって、彼は苦悩 していた。

誰よりもいち早く自分の限界を知るのは自分自身である。

彼は早々に己の才能に見切りをつけていた。もうここまでと自分で限界を決めてしまってからの舞 台は惰性で踊るのにも等しく、それでも斬新かつ大胆な動きに観客は彼の内面までうかがい知るこ とは無かった。踊れば狂喜する観客とは裏腹に冷えていく心を持て余し、体と精神がばらばらにな ったような状態は不安定で、結局彼は人知れず酒に逃げた。


「あれは――スペインに行ったときのことだよ。照り付ける日差しは本当に肌が焼けるくらいの夏 だった。夜になっても気温は下がりゃしない。星が綺麗に見えても憎たらしいとしか思えなかった さ。ソワレが終わっても、私は眠れなかった。もう、酒をいくら煽っても眠れないときは眠れない んだ。そして、そういうときほど悪い想像をするものさ」

「・・・・・・どんな?」

「例えば、旅団を離れてどこかに姿をくらましたらどうなるか、とか。曲がり角で誰か、出会いが しらにこの腹を刺してくれないかとか。その当時の私は逃げたくて仕方なかったんだ」

「マエストロでも、そう思うときがあるのですか?」

「あった、んだよ。そして今もある。逃げても逃げても自分の足元に広がる影は追いかけてくるし 、その影がふくらはぎに絡み付いてそのまま這い上がってくるような――恐怖と言っていいだろう ね」


ズボンの後ろポケットから取り出したスキットルの中身は喉が焼けるくらいのウィスキーだった。 グイと口に含んではあてもなく歩み続ける。どれくらい歩いているのか、逗留しているホテルから どのくらい離れたのかなんでどうでもよかった。このまま海に出て酔った勢いで飛び込んでしまお うかとも思っていたのだ。

いや、そこいらでたむろしているギャングに喧嘩を売って返り討ちにされて、再起不能になるくら いぶちのめして欲しかったかもしれない。暗い想像に自嘲の笑みすら浮かばなかった。とにかくこ の現状をどうにか打破してさっさと楽になりたかったのだ。


「どこをどう歩いていたのか分からないんだけれどね。小さな街頭の下で不思議な青年に出会った よ。彼はうずくまっていて、私は何の気なしに近付いてみた。片手にバイオリンケースを抱えてい たね」


どうした、とダーシャは適当に声をかけた。自分の発した声は案外しっかりとしていて、純度の高 い酒を飲んでも酔いは体の中でくまなく処理されてしまっていた。世界を渡り歩けば酔い痴れるこ とが可能な酒を発見できるのだろうか。味もしない液体を飲み続けることに飽きてきていたが、そ れでも手を伸ばさずにいられない自分の愚かさをもう、呪う気にもならなかった。

ダーシャの呼びかけに、青年はつと顔を上げた。存外整った顔立ちの青年であった。夜中に似合わ ない笑顔で、にこやかに笑って、青年は言った。


――あぁ、貴方はご自分を憂いておいでだ


この年になってフェアリーテールを信じているわけではない。だが、ダーシャに笑いかける青年は まるで「妖精のような」雰囲気を纏っていた。生ぬるい風がすり抜けていって、ようやくああ自分 はここにいるのだとなぜか思ったことを覚えている。


――貴方も、魔物を探していらっしゃる?


「・・・・・・それは、どういう意味ですか」

「誰だってそんなことを言われたらそう思うだろうね。だが、その時の私はそんな風に思わなかっ た。そうだね、問題を出されて目の前の人間がプロセスを説明せずに答えを教えてくれたみたいに 感じたよ。なぜわかる、とね」


――いいや、貴方は自分から魔物を切り捨てたのですね。だから、踊っていても満足していない


青年はバイオリンケースを大切そうに抱えて立ち上がった。ダーシャは大丈夫かと問いかけ、ええ と彼ははかなく笑って応えた。意味不明の問答をされながら、ダーシャはこの青年に対してなんの 警戒も抱いていないことに気がついていた。

出会って一分も経っていない相手に彼はよく分からない感情を抱き始めていることにも気がついた 。憧憬といおうか、羨望といおうか。走ることを諦めた人間が走り続けている人間を眺めているよ うな、少しだけ切なさの混じった感情だった。


――魔物を満足させられないご自分を嫌っておいでだ


ではお前はその魔物を知っているのかと、ほとんど無意識に訊ねた。青年は、軽く首を振って笑う 。


――出会えたなら、どんなにか幸せでしょうね


ダーシャの喉からくぅと変な息が漏れた。吐き気がしてきた。今まで吸い込んで飲み込んできた悪 いもの全部が胃から逆流してくるのがわかった。視界はぐるんぐるんと回り、呼吸すら危うい。ス キットルを持っている手が震え、ついに道路に落としてしまった。


――貴方は、どうしてそんなに怯えているのですか。何を恐れて何を求めているのかご存知でいらっ しゃいますか


ダーシャの異変に全く頓着せず、青年は言葉を続けた。


――何から逃げるのか分からずに逃げているのですね


それでは逃げ切れない、と青年の言葉が聞こえたところで記憶が途切れている。


「気がついたら朝だったよ。ひどいもんさ。服は吐いたあとで汚かったし、頭は割れるように痛か った。ついでに道に迷っていたしね。髪も肌も臭くて、誰も<ダーシャ・フレデリック・ルビンス タイン>だとわからないくらいだった」

「・・・・・・そして、マエストロはどうしたのです?」

「その日以来、舞台に上がることを止めたよ。結局、私は自分を満足させる踊りを踊れる人間では なかったんだ。だから振付師に転向した」

「でも」

「分かっているよ。私は成功したのだろうね。けれど同時に負けた人間さ。その魔物に出会うこと も叶わず、魔物を満足させることも叶わず、一体何をして生きてきたのかも分からない。手に入れ たものや贅沢な生活を手放すのが恐ろしくて踏み出せずにいただけの、哀れな男さ」


ダーシャの思わぬ告解に、彼女は言葉が見つからなかった。老いた師は話し疲れたのか一度深く息 を吸い込み、近くのテーブルに置いてあったホットミルクを手に取る。


「あとで分かったのだけれどね、その青年はバイオリンを片手にあちこちを放浪してる男だったそ うだ。ミサや婚礼でロハで演奏しては一晩の宿を対価に得ていたんだそうだ――きっと、いい演奏 をしただろうね」

「・・・・・・」


ダーシャは彼の人生で最後の愛弟子にこれ以上無いくらいの眼差しを注いだ。温かく、柔らかく、 全てを包み込むベールのような、許して癒すような。


「お前は――」


そしてやはり言葉を紡ぐことを止めた。


「いいや、また今度にしよう。今日はもう疲れてしまったよ」

「はい。また来ます、マエストロ」

「あぁ、いつでもいらっしゃい」












………!
チモ出てこなかった……orz