黒鳥と仮面のワルツ V
<オペラ座>は何も夜に門戸を開くというわけではない。マチネとソワレがあり、バレリーナ
たちは昼公演を終えた後、一端舞台衣装を解き、体を休めて軽い食事を取った後夜公演に備えてリ
ハを繰り返す。一度演目が決まれば何人かが同じ役を回しながら一週間ほど上演し続けるのが常で
あった。
同じ役を違う人物が演じるわけであるから、結果としてそれぞれの実力の差を見せ付けることにな
り、それは彼ら舞台の上に立つものにとってはえも言われぬ緊張感を生み出した。前日の公演が成
功すればその後の役者は過剰な期待を背負うことになり、その逆であっても、オペラ座の威厳を保
つという使命を負わされる。しかし、石を投げればそんなものはへいちゃらだという人間にしか当
たらない。
なぜならここは<オペラ座>、ヨーロッパの舞台芸術の最高峰である。神経の弱い人間、技術の無
い人間、そして実力の無い人間は存在しないのだ。
彼女はそんなオペラ座の裏側で育った。彼女自身はよく覚えていないが、オペラ座の寄宿舎の前に
捨てられていた、と管理人に言われたことがある。そのまま運良く拾われたのだ。ひとえにレッス
ンで垣間見せた才能が彼女を生かしたと言っていいだろう。ここで踊り続ければ飢えることも凍え
ることもないと知った彼女は、与えられるものを全て余すことなく其の身に取り込み、己が物とす
ることに集中した。
「・・・・・・っ!」
くるくると回っていた女が急に回転を止めた。荒い息のまま、汗が首筋を伝う。頭の高いところで
髪をくるんと一纏めにしているが、乱れた後れ毛が項に張り付いている。軽い舌打ちをして汗を拭
うも、背中に刺さる視線が強烈だった。
うまくない。不調だ。こんな風にターンしたいわけじゃない。苛立ちは腹の中でぐつぐつと熟成さ
れそして自分に跳ね返る。
口元にタオルをやって呼吸を整えつつ、足の状態を探る。トゥシューズの縛りが緩いわけでもない
らしいが、どうしたことか。体幹を通る一本の軸がうまく噛み合っていないような違和感がある。
何か一枚、紙くずでも挟まっているような。それに意識が向かってしまって、結局回転を止めたの
だった。そして、その不調の様子をメリーだったかマリーだったか笑って見ているのも分かってい
る。
「ご不調かしら、<黒鳥>さん?」
レッスン室の壁には鏡が張ってある面以外、バーが設置されている。他のバレリーナにスペースを
渡し壁際に寄りバーに体重を預けた彼女に、マリーはブロンドを揺らしながら言ってきた。自分の
調整はもう済んだのか、汗もかいていなければ、呼吸が乱れてもいない。拍子をとるための単調な
ピアノの音が耳の奥にこびりついた。
前髪の間から相手をじっと見て、まぁねとかうんとか曖昧に返せば嫌味に油を塗りたくったような
言葉が降ってくる。可愛らしい、「お姫様」然とした顔立ちから想像も出来ないほど、マリーは強
烈な女だった。舞台に上がるものは得てして気が強いが、彼女はまた別格でそして気位の高い女で
もあった。
「ダーシャも耄碌したのかしらね?アンタなんかを推すだなんて」
「・・・・・・・」
「アンタもアンタよ。師匠がいなくなってこのザマだなんてね。もう二度と<オデット>は譲らな
い。孤児は裏に大人しく引っ込んでいてね?」
「――<カウチ>以外の実力を磨いたら?」
一言、彼女はマリーに言い放った。白い頬に赤い唇、そして切れ長で勝気な双眸。その全てが敵意
を見せたとき、当てられた者の背筋を急降下して体温を下げる何かがある。皮肉って笑っていた顔
のまま、哀れなマリーは凍りつき、彼女が練習室を出て行く背中を見送るしか術がなかった。そし
て、バタンとドアの閉じる音と同時に焼け付くような嫉妬と憎しみを実感するのだった。
<カウチ>はオペラ座で使われる隠語である。
役を決める演出家に取り入るため、自分の体を売ることをいう。そしてそんなことは珍しいことで
なくむしろ日常的なことだった。金と欲が絡めば、芸術はいともたやすく俗におち性にまみれるも
のだ。そして、そこから生まれた偉大なる者は一人としていない。求めれば求めるほど遠のき、自
身を苦しめる。それが芸術であり永遠のパラドクスでもある。
「全身の皮ひっぺがしてもまだ足りないわ・・・・・・!」
そしてマリーは<カウチ>の実力者であった。
屋上を吹き抜ける風はからりと乾いていて撫でる肌を切るような感覚がある。今夜は月の光が強す
ぎて周りの星は輝きを見せてはくれない。青白く透明なベールを世界に被せたように静寂が降り立
ち、吐く息がずいぶん白い。視界はクリアで良好、そして天気もいいというのに、彼女はしかめっ
面のまま煙草に火をつけた。
「・・・・・・」
練習のあと、きちんと筋肉を解し、着替えまで済ませてここに来た。足元には夕食代わりの軽食が
転がっているが、さして食欲もないしあまり食べ過ぎては体が重くなる。第一、煙草と言うものは
不思議と空腹感を遠ざけてくれるのだ。固形物の代わりにビンに詰めた紅茶を一口あおり、横目で
その人物を確認する。
また居た。
危険防止の柵にもたれかかった彼女と五歩分ほど空けてあの男が居る。黒いジャケットに白いシャ
ツと言ういでたちはさして珍しいものではなく、むしろごくありふれていた。ただ、日常的な服装
にも関わらず彼の身につけている仮面はどうしたって浮いて見えたし、それが似合っているという
のもなんだかおかしな話だが――逆にしっくりきていた。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
声を出せばそれなりに届くところに居るのに、二人は会話をあまりしない。いつものように適当に
長い髪を纏めただけの女と、気だるげに銀色の髪を風に任せる男は視線すら交えることなく時間を
やり過ごす。煙草を吸う前に「あら」と彼女が言い、「終わったのか」と彼が言ったのが最後に交
わした言葉である。
今日はたまたま彼女が彼の後に来たというだけで、大抵は彼女がここでぼうっとしていると音も無
く急にその存在を示した。初めの頃は相応に驚きこそすれ、いい加減慣れてしまった。そして慣れ
たことを察した男はさして口を開かない。開いたとしても抑揚の無い、ゆっくりとした口調で眠い
とかだるいとか言うだけだった。
「・・・・・・その方角に何かあるのか?」
「貴方が興味を持つような建築物はないかしらね。ただの、民家があるだけ」
男が尋ねてくるので女は煙草の煙を吐き出しきってから答えてやった。そうかと言って彼がその身
を反転し、同じ方向を見る。
明るいところで見れば一目瞭然だろうが、彼はとても綺麗な体をしている。バランスの取れた肩の
ラインと腕の長さ。長い手足にふさわしく、其の身に余計な肉はついていない。仮面に半分覆われ
た顔立ちは隠しきることが出来ぬほど整っており――ならばなぜ仮面をしているのかわからないの
だが――時折、菫色の瞳がきりと光った。それは大抵、彼が興味を引かれるものに出会ったとき。
水面下で肉食魚がぱっくり口をあけている。
そんな空気を纏った男だと彼女は思った。先日の、あの哀れなずんぐりむっくりは不用意にその水
面を覗き込んでしまったのだろう。そうして一気に魂を食べられてしまったのだ。だったら、こち
らからそれを見なければいい。
「ダーシャ・フレデリック・ルビンスタイン」
「・・・・・・は?」
「この方向・・・・・・そうだな、あの青い屋根の家か?あの家にその男がいるんだろう?」
「そうよ」
今頃、マエストロは利いても利かなくても同じ薬を飲んで寝ているのだろうか。それとも暖炉の前
に置いた安楽椅子で読書でもしているのだろうか。老いた体を一杯に使って自分を出迎えたくれた
師は、何を思ってその時を迎えるのだろう。この頬を幾度も殴った大きな手はシワが寄って骨が浮
き出ていた。黒く豊かな髪は色を変え、抜け落ちて白髪が少し残っているだけだった。
――遣る瀬無かった。
彼がいるだけでレッスン室は驚くほど狭く感じたものだし、その背中は大きな、何か固いもので出
来た一枚岩のように思っていた。年月は無常に人の上を通り過ぎ、頬を風がすり抜けていくときに
ついでに若さまで掠め取っていく。低く野太い声は割れた音となって耳に届き、ゆっくりと呼吸し
て瞼を閉じれば、あぁもうこのまま瞳を開けないのではないか、とそら恐ろしく――彼女らしくも
ないのだが――もあった。
老人の見舞いなんて行くものじゃない。
「クリスマスの演目が決まったそうだな?」
「毎年変わらないけれどね」
女の無感動な答えにふんと鼻を一つ鳴らして、彼はそうかと言ったきり黙りこんだ。
「・・・・・・惜しい男が亡くなるな」
「そうね――きっと、観られないだろうけど」
ノエルまで、あと二ヶ月と少ししかない。