黒鳥と仮面のワルツ U



公演当日のリハーサルはそれはそれは入念に行われる。このオペラ座の門をくぐる者はある一定以 上の収入が基準となっており、結果として観客は限られていた。そうすれば彼らの目も肥えるとい うもので、ミスは当然ながら許されなかった。

オーケストラは出だしから終わりの音まで各楽器が一拍子たりともずれぬように、バレエ団は文字 通り一糸乱れぬように、歌手らは己の声を全て出し切るように。それぞれがそれぞれの意思を持っ て一つの舞台を作り上げようとしている様はまさに職人と言っていい。そして、舞台に立つ人間だ けで構成されているわけではない。「裏」にいる人間とて神経を張り詰めさせてその瞬間に備えて いるのだ。


「ちょっと、裾を踏まないで!」

「三幕の頭はこれでいいのか?」

「スコアが一ページ飛んでいるんだけど・・・・・・このアレグロはどうします?」

「ぼさっと突っ立ってんなら家にけぇれ!」


罵声と言ったほうが正しい指示や、コンダクターと演奏者が繰り返す相談、そして出演者の我がま まが重なるステージは雑然としていて統一感が無い。遠くの席で支配人二人がオペラグラスで監視 しているが、あの老人二人は今夜の集客と落ちる金の計算で頭が一杯のはずだ、と彼女は横目で見 た。


「邪魔!」


下手幕に行く途中、後ろから軽い衝撃を感じた。耳に届くのは英語訛りが抜け切らないフランス語 で、ちょっと振り返ればブロンドの小柄な女が立っている。いつものメンツを自分の背後に従えて 、その女――名前はメアリーだったかメリーだったか――は敵意丸出しの視線を向けていた。


「午前のリハが終わったからって、ぼんやり気を抜かないでいただけるかしら?」

「・・・・・・そんなつもりは無いけど」

「じゃあさっさと下がってくれない?通れないの」

「それはどうも、メリー」

「マリーよ!」


つと肩を逸らして道を空けるも、マリーはやはり英語訛りの強いフランス語で反抗する。後に続く 二三人が嘲笑を口の端に浮かべて通り過ぎ、そして彼女はやっと息をついた。似たり寄ったりのレ オタードとスカート、見分けのつかないブロンド。誰一人として名前を正確に言えない。そんなと ころを、影で「頭がおかしい」と叩かれているのは知っているのだが、いかんせんどうでもいい。

重要なのはいかに正しく踊り、観客を満足させることであって、個体を識別する記号を覚えること ではないと思うのだ。今はもう退いてしまったマエストロの名前と、バレエを彩る音楽の要である 指揮者しか名前を覚えていない。

人の記憶と言うのは限界がある。だったら、その有限のスペースには必要なことしか入れたくない 。だから、彼女は不必要なものは覚えないのである。忘れたくても忘れられない事柄以外、彼女は 綺麗さっぱり自分の頭の中から消去してしまっていた。パ・ドゥ・ドゥの相手すら覚えていない有 様である。


――次回、ねぇ・・・・・・


数週間前のあの出来事。人の命をいとも簡単に、まるで紙くずを丸めるがごとく握りつぶしたあの 男。一度見たら焼きついて離れない仮面と、向けられる殺気の濃密さ。そしてまとう空気とは裏腹 の造詣の深さと審美眼。

アイツは一体何者だったのだろうか。




今夜の舞台「三銃士」を終えた彼女は舞台衣装と化粧を取り払い、真っ直ぐに寄宿舎へと戻るかと 思いきや向かった先は<オペラ座>の屋上であった。秋の夜風は体を冷やし、筋肉を凝り固める。 ステージから降り立った後の、疲労が溜まった筋肉がそのまま固まることはいただけないと分かっ ていても、これが彼女の習慣でもあるのだ。

夜も深まろうという時間。客を送り出し終えたオペラ座も眠りにつこうかという頃合までぼんやり とパリを眺めては頭の中で今夜の出来を反芻する。出だしのタイミング、ステップの運びから指先 の見せ方まで。マッチで煙草に火をつけてからふうと大きく息を吐き出した。扉に体を預けてゆっ くりと目を閉じる。


「跳ねるところで跳ねる。止まるところで止まる。そして伸ばすところはきっちり伸ばす。それが バレエ」


幼い頃から言われていたことは、彼女の行動指針でもある。髭面のいかつい、でかい男は一から十 までこの体にバレエと言うものを叩き込んでくれた。体力の作り方、筋肉のつけ方、そして公演が 近付くにつれての生活の仕方。彼女が成長しあらゆることをマエストロから吸収していくのと逆に 、彼の体はどんどん萎縮していった。そして、気がつけばここから去るまでに衰えていたのだ。

解いた黒髪が風にふわりと舞い、ついでに紫煙を流してゆく。いつかと打って変わっての星月夜が 頭の上に果てしなく広がり、青白い影が足元に伸びていた。くすんだ緑色のローブの上から腕をさ する。

肌寒かった。


「夜になっても<黒鳥>は<黒鳥>のまま、か・・・・・・」

「・・・・・・っ!」

「そう、驚くこともあるまい・・・・・・なにもこの場はお前だけのものでもない、しな」


屋根裏から続くドアを背後にして立っていたはずなのに、その扉が開いた音はおろか、足音すらし なかった。しかし、銀色の髪を持つ彼は――初めから景色の一部としてそこに居たかのように現れ る。まるで、気付かなかったこちらが愚かとでも言うように。彼女は反射的に身を固くし、唾を飲 み込んだ。


「どうしてここに」

「この建物は面白いな。隠し回路が張り巡らされている・・・・・・構成する石の特徴を良く掴ん でもいるな・・・・・・」


問いかけはあっさりと却下され、彼は近くにあった彫刻を綺麗な形の手で撫でた。手袋というより ぴったりと手の形に添うグローブをしている手だ。屋上を見渡す左目には殺気がなく、代わりにこ の建築物に対する好奇心と値踏みが見て取れた。端正な横顔、仮面に覆われていないほうの横顔を じっと見つめながらも、彼女は警戒を解かなかった。当然である。


「貴方は」

「誰、何者・・・・・・という問いかけは聞き飽きた」


俺は俺でしかない、と彼は綺麗な声で続けた。牽制をされた女はじっと押し黙り、相手を探るよう な視線を投げかけたまま、手を口元に運んだ。煙草のもつ、独特の香ばしさとも煙たさともいえな い感触が口腔一杯に広がり、煙を肺に落とせば体中にゆき渡るのが分かる。ふうと吐き出した吐息 はしろくけぶって、秋の風にかき消された。

暗闇に半分溶け込んだ彼の正確な姿はわからないが、先日とほとんど似たようないでたちをしてい る。もちろん、仮面も見て取れる。あえて異なる点を挙げるとすれば、あのときに纏っていたマン トがストールに変わっていることくらいだろうか。


「<ミレディ>の役どころは見事」

「は?」

「今夜の公演、だ・・・・・・お前はヒールがよく似あうな」


石で出来た彫刻に施す愛撫は止まらない。相手が黙っているのでこちらも黙っていただけの彼女は 、唐突な言葉――一呼吸置いてから舞台に対する評価だとわかったのだが――に目を丸くした。切 れ長で勝気な双眸が文字通り見開かれて、適当に束ねただけの黒髪が風にさらわれる。言葉の真意 を汲み取ろうとしても、彼はどこに視線を定めているのかわからない。

二人の間はさして近いというわけではない。歩数にして五歩分くらいはあるだろうか。どちらか一 方が一歩でも後ろに退けば、確実に闇に溶け込んで見えなくなるという距離でもあった。頭上の星 々は地上のことなど関係ないといわんばかりに瞬き、伸びる影が交わることは無い。


「・・・・・・それはどうも」


なんと返したものか分からず、彼女は一瞬逡巡した後にかるく首を傾げてそう言うしかなかった。 トンと軽く紙巻を叩き、灰を地面に落とす。

知っている。白いコルセットに白いチュチュを纏い、ティアラを被って踊ることが似合わないこと くらい。彼女は、その髪の持つ色と同じ衣装で悪意たっぷりに舞い、そしてヒロインとヒーローを 混乱させる役どころがぴったりと当てはまった。それゆえに、彼女は黒髪を指すのと二重の意味で <黒鳥>とあだ名がついた。

先日、<白鳥の湖>での役が由来であることは十分に承知しているが、さして感想も無い。三十二 回の連続ピルエット、一度も軸をぶれさせず見事に回転しきった<黒鳥>に場内は割れんばかりの 拍手を送った。そして同時に、彼女が見せた輝きを妬むものを出現させた。


「あぁ・・・・・・だが」

「何か」

「まるで繰り人形が踊るようだな・・・・・・決められた型を正確に踏襲するだけなら、誰にでも 出来る」


――あぁ、マエストロ・・・・・・


その言葉に彼女は火のついたままの煙草を落とした。脳裏にひらめいた、体のでかい厳しい男。罵 られているのか指導されているのか分からなくなるレッスンと、ぶつけられる要求。よく泣かない ものだと言われて、何を考えているのかわからないお前は何なんだと理不尽なことを言い出す同期 や先輩。

あらゆることが脳裏を通り過ぎる言葉だった。


――お前に、感情を教えたかったよ


彼女の師は、<オペラ座>を退くとき、淋しそうにそう言った。ぽつりと零れた言葉を心で掬い上 げずっと転がしていた。感情の水面が鏡面のようにまっさらに広がるなか、ぽつんと浮島のごとく 存在していた言葉。

その言葉を、なぜあの男は言うのだろうか。言って、どうしようと言うのだろうか。寒さに一度注 意を逸らせば、次の瞬間にはもういない。夢か幻か見ていたような気分だった。しかし、それ以上 に深く食い込んだ何かがある。


――あぁ、マエストロ・・・・・・感情とは何ですか


頭上の星は地上に干渉しない。












チモリーヌは神出鬼没
しっかしバレエはわからんなー