引き摺った足で三拍子

悪魔の十字架と三拍子




黒鳥と仮面のワルツ ―ワルツ―



女は伏せていた目をゆっくりと閉じ、手にしていた本を床に放り投げた。今日訪れた刑事達の土産 である。全部読み終わってから、なぜ彼らがこれを自分に預けたか分かった。

時間も忘れて読みふけっていたらしく、ふと気がつけば夜である。真っ黒に塗りつぶされた窓の向 こうに、思い出したように降っている雪が見える。細かなそれは粉砂糖のように軽く、地上に積も れば重たくなる。

明日の朝には出て行くつもりである。物に執着がなかったのはこんなときに役立つ。呆れるくらい 持っていくものが少ないのだ。カバン一つで十分すぎた。捨てるものとくれてやるものと、それら に混じって一通の手紙が出てきたが、彼女はそれを未だに開封しないでいた。


「馬鹿な女ね、マリー」


イギリスでそれなりの名声を得てやってきたマリーは、オペラ座のスカウトに応じる形で舞台に上 がり始める。そこで一番になれると信じて。しかし無残にも叶わぬこととなり、マリーは、常に自 分の前を行く存在に負の感情をぶつけることになる。

日記の内容はそればかりだった。だが、読んでいて不思議と不快にはならなかった。潔く感情を表 に出すマリーを、初めて女は視界に捉えたような心持だ。ダーシャに対する尊敬と畏怖の念を持ち つつ、眼中に入れない葛藤、他人に対する嫉妬と敬愛。豊かな心を持っていたのだと、今になって 分かる。

歪ませたのは一体誰で、歪んだのは一体なんだったのだろう。

歪んでしまうほど、彼女は。


「本当に、馬鹿な女」


ないものねだりをするなら誰にだって出来る。

凍り付いてしまった心に、マリーの遺した日記は不思議な沈着物となった。だから、女をマリーの 部屋に向かわせたのかもしれない。




手に持った燭を先に部屋の中に入れると、散乱した有様が影で分かった。たった今開けたばかりの ドアから手を離し、一歩踏み入れると途端に糞尿と香水の匂いに包まれる。昼まで無臭――アルコ ールとエキゾールの匂いは常にしていたが――の環境にいた女は思わず眉をしかめる。

き、と鋭さを増した視線が舐めるように見渡した部屋は、散乱する服や物や食器で本来の広さの半 分を失っている。ベッドなのか服の固まりなのか判然としない山が一つあって、久しく火の入って いない暖炉は手入れも当然されておらず、いつ置いたのかわからない炭が一塊あった。

現場に来た刑事達の足跡がいくつも残っている。部屋の中央に辛うじて残っているスペース以外、 例外なく埃を被っていて、行き来の様子がよく分かった。彼女がこの場で死体となって発見されて から一週間もたっていないという。それを裏付けるように、天井の梁からぶら下がるロープが目に 付いた。


「何してたの、マリー・・・・・・?」


答える人もいないのに、女は自然とそう聞いた。乱雑な部屋は彼女の記憶にあるマリーとあまりに かけ離れていて、上手く結びつかない。だが、床に散らばる譜面や無造作に放り出された舞台衣装 を丁寧に見ていると、やはり不快感は湧かないのだ。

この空間を知っている。

あらかたの捜査が済んでいるのだろう。警察の来た跡が生々しく残っているものの、部屋は、マリ ーが生きていたときのまま保存してあった。

黒い髪の女はずり下がった毛糸のストールを肩にかけなおし、手近なところに燭を置いた。どこか らともなく出したマッチでランプに火を入れ、一番近くにあった譜面を読み取った。女自身にとっ ても記憶に新しい、<白鳥の湖>の第三幕のものだった。

譜面そのものはもう読めない。書き込みの上に書き込みが重ねられ、一体何を書いたのか判断がつ かない。何より、字が走っていてとてもじゃないが判読に耐えなかった。強い筆圧のときもあれば 弱いときもある。握り締めたのか踏んでしまったのか、シワが寄って、保存状態は最悪だ。

結い上げていない黒い髪がさらさらと流れた。地の色が分からない一枚の紙切れを手にした女は、 意外にも柔らかな瞳をしていた。長い睫に縁取られた双眸は、ゆっくりと一度閉じられ、開かれる 。何を思って見つめているのだろうか。


「――あぁ」


口の中で呟いた言葉は聞き取れなかった。窓の外は雪である。無限の花弁が空から舞い降りる様は どこか現実味がなく、自分自身も重力をなくしたように思えてくる。見えるのは明かりを一つ一つ 消してゆく巨大な箱――芸術を閉じ込めた<オペラ座>である。

大きな箱だ。

ここで生まれてここで死ぬものと思っていた箱だ。

マリーは外で生まれてここで死んだ。女はここで生まれて、これからどうするのだろう。

譜面をもとに戻しがてら、しゃがみこんだ女は白いものを見つける。初めは入り込んだ雪かとも思 ったが、そうではない。溶けることのない小さな白いものはただのボタンであった。

刑事達は部屋の主の、数多の衣装から取れたものと思ったのか回収され損ねていた。しかし、見る ものが見ればそれは明らかに正しくない。見るもの、とはそれを記憶しているもののことである。 この部屋に、このボタンがあるということ、つまり、<彼>がここに来たという証拠に他ならない 。


――しばらく会ってはいなかったけれど


会わずにはいられないらしい。ふと微笑みの形に表情を変えた彼女は、<オペラ座>の屋上に見え た人影に視線をすえた。




外は骨も凍るような寒さであった。高いところは得てして風が強いものであるが、屋上も例外でな かった。真っ白に染まった広い視界の中で、数々の彫刻たちは服を纏うように雪を積もらせている 。ぴゅうと吹き抜けていった風に思わず身をかがめ、すぐに姿勢を正す。視線が捉える先には、い つものマントの影がある。


「ご機嫌いかが」

「悪くはない、な」


五歩分の距離をとったところで女は変わらぬ口調で問うた。すると影も変わらぬ口調で返してきた。

見慣れたマントに見慣れた仮面をつけ、風が乱すままに銀の髪をなびかせそして菫の瞳をしている 。形のいい体躯をしており、硬質な空気が醸し出す魅力ともいおうか。一度見たら二度と忘れられ ない男である。そもそも、初見からして最悪の出会いを果たしている二人だった。


「なぜ殺したのって、聞いたほうがいいかしら」

「・・・・・・好きにすればいいさ」

「じゃあ、殺してくれてありがとうって言ったほうがよろしい?」


女が一歩、足を踏み出した。その分、距離が縮まる。


「この<オペラ座>が気に入って?」


女は左足を踏み出す。僅かにバランスが崩れるも、ちゃんとこらえてまた一歩踏み出す。


「中途半端な仕事はしなさんな――」


かじかむ手を彼に向かって差し出し、開いた手の平にはあのボタンが乗っている。ランプの炎が風 で消えた。寒さで生理的に震える手の平を、影はじっと見つめふんと鼻から息を吐いた。呼吸がは っきりと白くなり互いの距離をつめた分だけ、強い気がぶつかり合う。

漆黒の瞳と菫の瞳がきりと絡まったその一瞬だった。

乾いたくせに鈍い音が走った。少し離れたところに、黒くてきらびやかな仮面が飛んだ。


「・・・・・・っ」

「――妾が追いやって、貴方が終わらせた」


女は殴った痛みが走るその手をローブの中に引っ込めていう。初めて目にした男の左側の顔には古 い古い刻印が刻まれていて、なんだかとっても滑稽だった。


「そう解釈するわ」

「・・・・・・だとしたらどうなのだ」


殴られた男は不敵な笑いを見せた。古い十字架、遠い昔話になっているそれはきっと、男のこの笑 いに方に対して刻まれたに違いない。悪である。引きずり込んでもがいている様を悦んで見て笑っ ている悪である。

女は溜息をついたのか、力を抜くために一息入れたのか分からない。大きな呼吸を繰り返し、そし て泣き笑いのような顔で言った。


「舞台から降りられないわね――踊れもしないのに」


雪が降っていた。寒空の下で仮面の男はく、とひとつ笑った。まずは貴方の名前を、と尋ねた女に 影は知盛、と短く答える。遠くのほうに広がる夜景は侘しさを湛えていて、色とりどりのそれをは じめて見たような気分だった、と女は後に話している。

――これが、オペラ座を舞台にした二人のいびつなワルツの始まりだったのだ。






さて、これが私の知る限りのことである。この一年後に女はボックス案内人の後釜を務めることに なり、さらにその三年後、あの事件が起きるのである。三年の間、ワルツの仲間が一人、ペルシャ から加わったようだが、私は詳しいことは知らない。

話し終えた私を、目の前のしかめっ面の男は不満そうに見返してきた。仕方なしにグラスを磨く手 を止め、彼に向き合う。


「また御伽噺でも聞かされた気分だ」

「左様でございますか」

「貴方も言うのだろうな――信じるか信じないかは任せる、と」


パリ市警の身分を持つ彼は、しかめっ面のままラムを飲み干した。青年は黒い髪を掻き揚げてふう と溜息をつく。彼に何の酒を出しても美味いと感じているのかそうでないのかさっぱり分からない 。だが、この混み入ったところにある店に来てくれる、僅かな常連の一人である。

あの夜。

私がスペインで呪いをかけたダンサーの弟子は、今彼が座っている席でオペラ座の話を聞かせてい た。私は奥で子守唄を聞くように耳に入れていたものである。あれからどのくらいの時間が経った のかは問題でなく、彼は、三日にいっぺんは姿を見せるようになったのだ。

その反面、あの日以来弟子の姿は見ていない。どこでどうしているかなど、この私に知る術もない が、パリを離れていないことだけは分かった。彼女は、私がとうとう出会えなかったものに身を変 えた人である。もしも来店したならば手厚く出迎えようと、今でも思っている。この長細い店で、 じっと息を潜めるようにして。


「えぇ、そう申し上げますな。私とて、この話を人様にするのは初めてのことでございますから」


私がにっこり微笑んだのがよほど気に食わなかったのか、パリ市警の男は機嫌を悪くしたついでに またラムを頼んできた。


「自分が感じたものだけが世界の全て、と申しますでしょう?」

「初めて聞いたな、そんな言葉」

「ええ、そうでございましょうな。私が、たった今考えたのですから」


ふん、と彼は鼻で笑った。眉間のシワはますます深くなるばかりである。私はオーダーを差し出す とまたグラスを拭き始めた。外は寒いのだろうか。彼女は今夜、来るのだろうか。来るかも知れな い、と胸のどこかで鐘が鳴っている。

重たい扉の向こうに気配を感じたのと同時に、開かれた。新たな空気が一気に流れ込んできたのが 分かる。


「――」

「――あら」


新たな客は少し皮肉そうにこちらを見て、それから座っている彼を見て、綺麗に歩きながら言った。


「またお会いしましたわね、泰衡様?」


<ノエル>のときと変わらぬ黒い髪が、さらりと揺れた。






*fin*









お気に召しましたらぽちっと、ひとつ










じゃんのあとがきが読みたい人はもちょっとスクロールしてください。



















あとがき
えーと、こんなオリジナル要素が強い話にお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
ってゆうか、もうじゃんのオリジナルにキャラクターがゲスト出演しているようなものですが。
書き終えた一番の感想としては「分不相応なことはやるもんじゃない」と反省が色濃いです。
いや、まぁ常に反省と後悔を繰り返しているので慣れっこなのですが(だめじゃん

さて、一つの作品で三人も殺したのは初めてです。
びっくりするほどローテンション、そしてダークで暗い話になりました。
いや、ほんとお付き合い下さったかた、ありがとうございます。

オペラ座五番ボックス案内人がここまでキャラが強くなるとは自分でも思っていませんでしたが。 生みの親としては話全部を通して名前を付けていないのがなんともまぁな気分です
本編・番外編とおして影の主役なのにな……
ほとんどがオリジナルキャラクターなのでアレなんですが、勝手に動いてくれてありがたかったと いう感想がなきにしもあらずです
ゲイジュツなんぞというものに軽い気持ちで手を出しちゃいかんな!と涙に暮れつつここいらで終 わっておきます。

それでは、次回があることを祈って

12.31.2006  じゃん