踊れぬ足になんの価値がありましょうや――
女は怒鳴り返した
黒鳥と仮面のワルツ T
彼に会った――いや、遭った、のは病気でバレエ団から退いた師の、見舞いの帰り道でのことであ
った。
思わぬほど彼女はマエストロ――これは彼女だけが師に向ける呼称だ――と話し込んでしまい、行
きは昼下がりだったのに帰りはとっぷりと日が暮れていた。お陰で曲がる小道を一本間違え、入り
込んだのはパリの裏側である。
華やかなパリ、ここ欧州でも屈指の技術と人口を誇る都市の裏側というのは、多くの街がそうであ
るように貧富の差が激しい。富めるものはそんなに蓄えてどうするというくらいにフラン紙幣を懐
に溜め込み、一方では食うや食わず、食わぬ日のほうが多いといった有様である。まったくもって
、フランスという国はかのマリー・アントワネットの時代から一向に成長していないらしい。
通り抜ければオペラ座に続く大路に出ることを知っていた女は足早に歩いていくが、その後姿を秋
の宵風がひゅうひゅうと不気味な音を立てて追いかけてきていた。人通りといえば少し前を行く男
とこちらに向かってくる、ずんぐりむっくりの影だけ。みすぼらしいアパートが軒を連ね、暗く、
星も出ていない空は長方形に切り取られて頭上に広がる。遠くのほうで犬がぎゃんぎゃん騒いでい
た。
馬車賃をケチるのではなかった。
女がそう舌打ちをしたまさにその瞬間。
「・・・・・・っ!」
長い黒髪が揺れる。切れ長の勝気な双眸が大きく見開かれ、両足は唐突に歩行を止める。自分が預
かり知らぬところで本能は危機を察知し、二本の足はそれに忠実に従った。袋に入れていたトゥシ
ューズが地面に落ちて転がり出る。その軽い音が耳に届くのと、ずんぐりむっくりの影が力なくし
て倒れこむのと同時だった。
小道の通り抜けた先にあるガス燈がなけなしの光を注いでいる直線上、立っているのは彼女と彼――
シルエットが男のものであるのは分かる――だけだった。
遠くで騒いでいた犬の声が聞こえなくなった。
「――」
「――」
パリの裏側で人の死体と言うものはさして珍しいものではない。公安当局が定期的に巡回し、それ
なりに葬ってはいるが、人の死と金は密接に繋がっており、よってここで驚くべきは死体ではなく
、立っている人影のほうだ。
背の高い、すうとした背筋の男であった。彼とすれ違う瞬間、倒れた人――今は人であったもの――
は肩を触れさせた。そこまでは分かる。そこまでは分かるのだが。
彼が振り返った。
「あ・・・・・・」
仮面をした顔だった。逆光になって顔立ちまで明瞭でないものの仮面をつけていることが見える。
ただ、両目から発せられた殺気に当てられて、叫ぶはずの声は喉の辺りで凍ってしまい、ごくりと
飲み込んだ唾がやけに固く感じた。何をした。
「・・・・・・お前」
ああ、殺されるのだと思ったその次に浮かんだのは、自分が抜けた穴は忌々しいあのブリティッシ
ュが埋めるのか、ということだった。それから、アラベスクがうまく決まらないのに、ということ
。こんな状況でも公演とバレエが脳裏をよぎることに驚いたが、逆にどれだけバレエに生きてきた
かを思い知る。男は抑揚のない、ゆっくりとした口調で言った。
「バレリーナ、か・・・・・・」
こちらを捉えて離さない硬質な空気。殺気はその人物の意志を凝縮して作られる。彼女は、小さな
空間でちっぽけにそこに存在するだけになり、来るべきときを避けることも許されず、彼の接近に
成すがままになるしかない。
足音がしない歩き方だった。近づけば分かる。さしてみすぼらしい格好をしているわけでもなく、
簡素ではあったがそれなりにきちんとしていた。暗がりに映える銀色の髪はざんばらにされ、何の
気なしにポケットに入れた手が気になる。彼は、一体どうやって。
「そう」
短く答えるとやっと心臓が高鳴った。あまりのことに動悸を早めることさえ忘れていたらしい。半
拍遅れて足から震えが来た――こんな自分でも、一人前に恐怖を感じているらしい。だが、彼の圧
倒的な存在の前には危機回避本能が機能せず足は縫い付けられたように動かない。纏めていない髪
がさらりと肩から流れ落ちて、その感触が頬の下あたりに残った。
「<黒鳥>じゃあないか・・・・・・」
「なぜ、それを」
市井で呼ばれる己のあだ名を、皮肉に歪ませた口端に上らせて男はニイと笑う。菫色をした双眸が
きらりと光って、本当にもう死ぬのだと思った。縋る神も頼る親も持たない自分は、一体どこに埋
葬されるのだろうか。街はずれの共同墓地だけは勘弁こうむりたい。あそこはイカレた神父が酒臭
い息で朦朧と説教をたれる。
「昨晩、<オペラ座>に招かれてね」
本当にいたのだとしたら、こんな目立つ客を見逃すはずがない。嘘かまことか、どうでもいいこと
が頭を駆け巡る。近くで見れば見るほど、彼は整った顔立ちであることが分かる。美しい男だった
。体を構成するそれぞれのパーツがうまいバランスで繋がっていて鍛えられたらしい肉体は、さな
がら彫刻としても通じる。
「第三幕の頭、出だしのミス・・・・・・アレがなければよかったが、な・・・・・・」
「・・・・・・それはどうも」
確かにミスをした。軸がブレて軽くターンの終わりが揺れた。そんな細かなミスは、目の肥えた観
客でもわかりっこないのに――実際、群舞の誰一人として気付いていなかった――彼は見事に指摘
してきた。だとしたら、本当にいたのだろうか。芸術が巣食って中央に鎮座する<オペラ座>に。
だが、今はそんなことどうでもいい。
「じゃあ、な・・・・・・<黒鳥>?次回の公演を楽しみにしてるさ」
男はそういい置いて、あっさりと彼女の横を通り抜けた。
はたとわれに返ったのは遠くの犬がまた騒ぎ出したからである。そうして、ようやく、彼女は助か
ったことが分かった。それも、彼の気まぐれで辛うじて命を繋いだということが。
五年前の、秋の暮れのことであった。
これが後の<五番ボックス案内人>と<オペラ座の怪人>の初見である。