2:常連客談義

背表紙に記された御剣怜侍の四文字。なぜか交番の下っ端の警官を飛び上がらせるだけの威力があ った。にしてみれば「たかが検事の一人じゃないか」と言ったところだが、現実はたかが、で はすまないらしい。
しかし、法廷だ有罪だ司法だと、およそ法律とは違ったロジックの世界で生きているであ る。先日のこと――どうしてが彼の判例集を持っているのかということ――を警官に話し(そ れでも相手は終始半信半疑だった)、例のブツを渡してバイト先の喫茶店に向かった。言伝を残し ておくのも忘れなかった。いわく、

“おそらく私の教科書と入れ替わっているので、もし持っているなら連絡を下さい”

と。
どうせ遺失物拾得者届出書に氏名と連絡先と住所まで残しているのだ。まして、彼ら下っ端の警官 にとっては天上人も等しい人物(であるらしい)の私物をそのままにしておくとは思いがたい。

(ま、伝言まで一緒にちゃんと届くかはわかんないんだけどさ)

そんなことをつらつら考えながらテーブルを拭いていると、カランと小さなドアベルが控えめに鳴 って、来客を教えてくれた。


「いらっしゃいま――あ」
ちゃんっ!」
「真宵ちゃん。・・・・・・ってことは」
「こんにちは、邪魔するよ」
「いらっしゃいませ、なるさん」


背中の半ばまである長い髪を、頭の上半分だけお団子に結い上げ、不思議な和服の装束に身を包ん だ少女と青いスーツにトレードマークと言っても差し支えないような、ぎざぎざ頭をした青年を見 て、はふっと頬を緩めた。彼らはこの近くにある法律事務所の人間で、この喫茶店の常連客だ った。


「今日は何にします」


元気のいい真宵と、騒ぐなと窘めている成歩堂と交互に見比べながらはオーダーを取る。


「ぼくは・・・・・・ブレンドで」
「はいはい、いつもの、ですね」
「あたしはねー」
「オレンジジュース?」


真宵が最後まで言い切る前に苦笑しながらホールからカウンターへ戻る。何にするかと毎回聞いて いるわけではないが、オーダーはそれしか知らないようにいつも一緒だ。戻る最中、真宵の視線を 背中に感じる。


「ううん・・・・・・やっぱりカッコいいなぁ、ちゃんのギャンブル姿!」
「それをいうならギャルソン、だと思うけど」
「せめてバリスタ、っていってくださいよ・・・・・・」


二人の当たらずとも遠からじの問答に耳を傾けつつも、ぬるま湯につけてあったサイフォンをセッ トし専用のポットに入れたお湯を沸かし始める。いつもの定位置、カウンターの隅から二番目と三 番目に陣取った二人は、じっと、手際よく動くの手元を見ている。


「――あ、真宵ちゃん」
「なぁに?」
「ケーキ食べる?賞味期限が十分前に切れたやつ」
「いいの!?食べる食べる!」


レジの乗っているケーキ用のショーケースから二切れイチゴの乗ったショートケーキを取り出し、 皿に飾って差し出すと、オレンジジュースもそこそこに勢い良くぱくつき始めた。その横で、成歩 堂は目顔でいいのかなと聞いてくる。


「どうせ残してても捨てるやつだから。はい、なるさんの分」
「マスターは?」
「昼寝中ですよ」
「もう夕方ってか夜になるけど・・・・・・」
「だから、昼から寝てるから昼寝中」


一足遅れて出来上がった成歩堂用のコーヒーをなるだけ音を立てないようにして置くと、視線がな ぞった先に、あるものがの目に留まった。彼の胸元に光る身分を示すバッチ――この国で文系 災難間の試験を突破したものだけが手にすることが出来る、弁護士バッチ。


「そういえば、なるさんって弁護士でしたっけ」
「なんか引っかかるけど・・・・・・弁護士やってるよ」
「――そうか・・・・・・」


困り事でもあるの、と成歩堂は人のよさそうな顔でに尋ねてくる。それを、じっと見返しなが らはううんと口の中だけで唸るようにして、それから


「ミツルギ検事って知ってますか」


と聞き返した。その途端、


「――ぶっ!」
「――ぐむっ!」


と、二人同時に噎せ返られては逆にのほうが驚くというものだ。驚いて硬直しているに、 成歩堂は咳き込みながらもごめんと一つ謝り、真宵は口の周りにクリームをつけたまま、何か奇怪 なものを見たときのような顔をしてを見つめている。
で、そんなに変なことを聞いたかと一人ごちて、この二人の過剰反応はなんだろうかと 思う。そして、「ミツルギ」と改めて人前で口にしてどこか引っかかるものを感じるのだ。会った ことは、あの一回きりだと断言できるはずなのに、なぜかその名前を知っているような、ひどくあ やふやなくせに喉に魚の小骨がささっているような、小さな違和感がある。


「し、知ってるも何も――」
「――今日、法廷で散々やりあってきたばかりだよ!」
「・・・・・・ハァ!?」


今度は、が不意打ちにびっくりする番だった。成歩堂龍一はこの店のマスターいわく“依頼人 の無罪は勝ち取るが寿命を縮める”弁護士だし、御剣検事といえば“何が何でも有罪にする”検察 官らしいのだ。その二人の取り組みは――こういうと相撲みたいでなんだか滑稽なのだが――十分 、有り得る。


「でも、どうしてちゃんがミツルギ検事のこと知ってるの!?」
「えっと・・・・・・それは」


ここに来る前に、交番で一度説明をしていたためか、割と滑らかにわかりやすく、スムーズに説明 できたと思う。それを、二人揃って似た顔のままふんふんと頷いて聞いてくれた。一通り話し終え ると、成歩堂はふうんと鼻を鳴らした。


「で、御剣の判例集は交番にある、と」
「そう。今日届けてきたんです」
ちゃん、ミツルギ検事に何かされなかった?睨みつけられなかった?」
「すまないって、言ってくれたよ」


胸の前でむうーんと拳を作って力んでいる真宵に、は肩をすくめて応じた。隣の成歩堂は逆に うーんと首をひねって唸っている。


「連絡、取ってあげようか。御剣に」
「え、お知り合いなんですか、なるさん」
「まぁね。いろいろあってさ。アイツもわけわかんない数学の教科書持って困ってると思うし」
「わけわかんないってひどいな、もう」


六法のほうがわけわかんないですよ、と成歩堂に苦笑いを向けると、お互い様だねと言われてしま った。帰り際、連絡は明日以降になるよと念を押され、ついでにの連絡先も聞かれた。


「申し訳ないけど、審理は明日までなんだ。法廷が終わったら聞いてみるね」
「――お願いします」


連絡の依頼料はコーヒーとオレンジジュース代にしておくよ、と彼は朗らかに笑った。