3:疑問提起

携帯電話が鳴ったのはあいにくと授業中のことで、出ることが出来なかった。こっそり教授の目を 盗んでディスプレイを見ると、着信は「成歩堂龍一」からのものだった。ごめん、と悪い気持ちに なりながらも、は目の前で展開される数学の講義に戻った。
約束どおり、審理の終了と同時にあの検事に聞いてくれたらしい。そして、その結果、教科書と判 例集を取り違えて困っていたのだと。その電話を受け取ったのが昨日の夜のことで、じゃあどうし ますかと相談した結果、今日、連絡をよこすと彼は約束してくれたのだ。

(あと三十分待ってて――)

カバンの中で震え続ける、使い込んだ携帯電話のバイブレーションは、それから少しして止まった。






「――あ、なるさん?」
『や、ちゃん。今、大丈夫?』
「はい。さっきは出られなくてごめんなさい。授業中だったんです」


授業が終わると教授よりも早く教室を飛び出して、なんだなんだと見送るクラスメイトの視線も気 にせず廊下に出るなり成歩堂に電話を折り返した。少しだけ弾んでしまった息を整えながら、歩き 出して同時に電話の向こうの気配に集中する。
もし、これが法廷の休憩時間だったらどうしようとか、実は依頼人が傍にいるんじゃないかとか、 とかく学生の身分では想像しきれない社会人への気遣いが先立った。


「あの、今、大丈夫ですか?」
『ああ、ぼくは大丈夫。ちゃんは今、大学?』
「はい」
『えっと、今日何時まで学校があるの?』
「えっと、それは・・・・・・」


右手に持った電話を左手に持ち替えながら、腕時計を見る。この後、もう一コマこなした後、入室 を希望する研究室の教授の授業に顔を出してみようと思っていたのだ。そう伝えると、じゃあ夜は と選択肢を投げてくれる。

成歩堂の、こういうところはすごいと思う。相手がどんな状況にいるのかどうしたらいいのか、瞬 時に見抜いてしまう――だから、いつも弁護で無罪を取れるのかもしれないが。しかし、この電話 のやり取りだけでそう思うのはなんだか大げさな気分になってしまって、相手が目の前にいるわけ でもないのに苦笑した。


「夜なら・・・・・・大丈夫だと、思います」
『そっか。ぼくの事務所、知ってる?』
「ああ、あの角を曲がったところですよね。坂東ホテルの向かいにある」
『そうそう、夜でも構わないから、来て欲しいんだ。先方にもそう伝えておくし』
「――先方?」


不思議そうに聞き返したに、成歩堂は少し面白そうな響きを持たせて伝えてきた。


『御剣。自分で持っていくって言って聞かなくてさ』


その後の講義が上の空になりがちだったのは、言うまでもない。

とんと法律の世界に疎い、と言っても時間があるときにちょっとだけ調べてみたのだ。その―― 「御剣怜侍検察官」について。幸いなことにサークルに法学部の人間がいて、名前を出すだけでつ らつらと嘘か誠か、はたまた噂に尾ひれ背びれがくっついた、ある種都市伝説とも知れない話をし てくれた。情報伝達網が発達している昨今、過去の記事はネットで読むことが出来たし、何より、 法廷の映像がなくても(審理は撮影禁止なのだ)一度、強烈な印象を残してもらっている。
結果、先日の下っ端警官の反応も納得できた。
「検事局きっての天才検事」で「負け知らず」。一時は黒い噂は絶えなかったらしいが、その黒い 噂の真偽のほどは知らない。そんな人を――たかが検事、と思っていたのか。そして、彼が初めて 負けた法廷で弁護に立っていたのがあの常連客だというのだ。

(――実は、なるさんって結構すごい弁護士だったりする?)

部屋のパソコンに向かい合っていたとき、は結構失礼な感想を抱いていた。
どうしよう、コーヒー代のツケ、請求してみようかな。






「あ、ちゃん!」
「こんばんは、真宵ちゃん」


初めて訪れる成歩堂法律事務所までさして迷うこともなく、すんなりとついた彼女を出迎えてくれ たのはいつでも元気一杯の真宵だった。相変わらず、不思議な装束を着ている。一度なんでと聞い たことがあるが、これも修行なのと答えになっているのかなっていないのか、いまいち曖昧な返答 をされてしまった。
の前を歩いて成歩堂を呼んでいるその声は、一日の疲れなんか微塵も感じられない。

(若いって、こういうことかなぁ)

真宵の背中でぴょんぴょんはねている黒髪の毛先を見つめながら、なんだか年寄り臭いことを考え てしまう。いや、こういうことを考えるようになった時点で、もう年老いてきたということなのか。


「あ、ちゃん。ゴメンね、呼び出したりして」
「構わないですよ。家からそう遠くないし――はい、お土産」
「わぁい!何なにナニ?」
「三十分前に賞味期限が切れたシュークリーム、ウチのマスター特製生クリームたっぷりバージョ ン」


真宵に連れられて応接セットのある部屋にはいると、先に成歩堂が立ってまた出迎えてくれた。お 土産の入った箱を真宵に渡すと、それこそ飛び跳ねんばかりに給湯室へ持っていく。お茶淹れるね と嬉しそうな声が余韻を残して消えて行ったとき振り向いたのは――もう一人、ソファに座ってい た人物、御剣怜侍その人だった。


「御剣、こちらさん。ちゃんはもう知ってるんだっけ。これが御剣怜侍だよ」
「これ、とはなんだ成歩堂」
「あ・・・・・・先日は、どうも」
「・・・・・・うム」


はじめまして、というのもなんかおかしくて、かといってまたすみませんでしたと謝るのもしつこ い気がして、はぺこりと頭を下げた後からどう言葉を続けたものか困ってしまった。そして、 それは相手も同じと見え、こうして向かい合ってみるとまるで話を聞いたときに描いた像や、調べ たときに想像してみた姿と違う。育ちのいい青年、そんな感じがする。


「ま、とにかく座りなよ、ちゃん。お茶は真宵ちゃんに任せていいから」


(――て、言われても)

どこに座ったらいいのかわからない。成歩堂の隣は真宵が座るだろうし、そうすると自分は御剣検 事の隣で、でも面識はたったの一回きりという非常に微妙な間柄で隣同士になるのは気まずい。
お茶は真宵に任せる、と言われてしまっては手伝いに行ってそのままうやむやな形で座ることも出 来ないようだ。普段はこんなこと考えもせずに「じゃあ」とか何とか言って座るくせに、今は、た めらいが先にたって足が動かなかった。


「もう、だめだなぁ、なるほどくんは。ほら!ミツルギ検事の隣に行った行った!」


逡巡している間に背後に立っていた真宵が頬を膨らませて成歩堂をにらみつけている。驚いて振り 向いた次の瞬間、真宵はお茶を載せたお盆をテーブルに置きがてら、大の男二人を相手にしてしっ しっと手で追い払っている。


「ま、真宵ちゃん?」
ちゃん、どうしていいかわかんなくなってるじゃない!」
「そ、そんなことないけど」
ちゃん、ここね。あたしここ」


成歩堂は逆らうことも出来ずに迷いに従い、二人がけ用のソファが一つ、丸々空いた形になる。そ して、嬉々としてシュークリームの入った箱を開けようとしている真宵は満面の笑みで自分の隣の空間を叩 いて示してくれた。正直――


(――助かった・・・・・・)


「あの、それで・・・・・・」
「君にすまないことをした。その、急いでいたとはいえ」
「ああ、いや、大した参考書じゃないですから」
「これで、いいだろうか?」


つ、とテーブルに出されたのは見慣れた大きさの本で、ちゃんと袋に入れてくれていた。中身を確 かめると、確かに入れ替わってしまった自分の参考書に間違いない。


「――はい。どうもありがとうございました」


よかった、ちゃんと目を見てお礼を言えた。隣に座った真宵はの手元を遠慮無しに覗き込んで きて、不思議そうにの顔を見上げた。こういう学問があるんだよ、と言えばさっぱりわからな いと素直に答えるあたりが彼女らしい。


「そういえば、あの・・・・・・判例集、ですけど」
「ああ、昨日受け取った。わざわざ手間をかけさせたようだな」


すまない、と御剣が再三謝るのでいえいえとまた頭を下げた。どうしてこう、上手く言葉が出てこ ないものなのか。普段、教授相手だってマスター相手だって、べらべらとは行かないまでもそれな りにちゃんと話すのに。
改めて観察すると、御剣は整った顔立ちと綺麗なすらりとした体格の人だった。身長は成歩堂とさ して変わらないくらいか。短い髪と、長い手足の人で、なんだかすっきりとした雰囲気を持ってい ると思った。間違いなく、「いい男」の部類に入るだろう。


「・・・・・・君は、眼鏡をかけてはいないのか」
「は?あ、いや、少し前までかけてましたけど・・・・・・それが、何か」


唐突に視線を向けてきたかと思うと、御剣はの予想を遙かに超えた質問をしてきた。虚を突か れたというか、思ってなかったから正直に答えてしまったが、答えてからどうしてと疑問がわいて くる。答えを求めるように成歩堂を見ても、彼も驚いた顔をしているだけで何の助けにもならない。


「不躾なことを聞いて悪いが・・・・・・、というのだな」
「はぁ、そうです」


一体、何の尋問だろうと思う隙もなく住んでいるところを聞かれたのでこの近くだと、これまた馬 鹿正直に答えてしまった。そしてそれは成歩堂と真宵の二人にとっても初耳だったようで、またび っくりされる。


「あれ、言わなかったかな?あの喫茶店の上の部屋に住んでますよ。大家はマスターです」
「初めて聞いたよ・・・・・・」
「だって聞かれなかったから」
ちゃん、水臭い!遊びに行きたい!」


今度ね、と真宵と約束をしている間、御剣は一言たりともしゃべらず、またむうと黙り込んだ口元 を見ているだけでなんか――だったので話の切れ目を狙って早々に事務所を後にさせてもらった。 送ろうかと心配そうな成歩堂を丁寧に断って、それでも帰り道は疑問がわいていつもより近く感じ た。


――どうしてあの人は眼鏡をかけていたことを知っているのだろう。








背景シュークリームじゃないよ……