空蝉 9
「それは、殺された者の名、だが・・・・・・菜摘姫?」
ゆるりと、まるで何かの歌を読み上げるかのような調子だった。
「なっ!知盛!?」
「ちょっと、何言ってるの?」
将臣と望美、それぞれの反応を横目で見やりながら、知盛は続ける。
「菜摘姫、よくやったものだ・・・・・・」
「はて、なんのことでございましょう、中納言様」
対する村瀬―知盛は死んだ菜摘だというが―は平然と返す。言葉に、菫色の瞳がきゅうと引き絞られ、
将臣は戦でみるときの瞳だと思った。
知盛の表情は変わらない。無造作に御簾を跳ね除け、乱暴に女房の面をあらわにした。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
こんなときに言うべき言葉はいくらでもあるのだろうが、どれを言ったらいいのか判らない。色とりどりの玉の中からたった一つを選び出すような作業で、
しかし選んだからといって意に沿う保障もない。見れば、将臣同様、望美も沈黙を選んでいる。
女は可愛らしいというよりは美人の部類に入る。
豊かな黒髪はつややかに腰先まで流れ落ち、身にまとう藤衣さえ映えるような白の肌。滑らかな頬に涼しい双眸。静謐とも静寂とも取れる気品のある顔立ち。
知性が瞳に見え隠れしているが、今はひたすら厳しい視線をもって知盛を見つめていた。
「そんなに熱い視線を送ってもらっても・・・・・・困るな。俺は――」
ぐいと乱暴に望美の腰を引き寄せる。
「――こちらのお嬢さんに夢中だ」
「やっ!ちょ・・・・・・ちょっと、知盛!」
急に身を腕に捕らえられた望美はびっくりするしかない。荒げた声は知盛の笑いに消え、憮然とした顔で将臣を見る。
「おい、知盛。望美をからかうのもいい加減にしろ」
「おや、幼馴染殿の許可が必要かな?」
「茶化すな。それよりも」
将臣は真剣な表情に変わり、女房を見た。何を見てもこの女房は顔色ひとつ変えない。あるのは敵意の感情を滲ませる二つの瞳。
戦なれしている自分でさえもたじろいでしまうような、強い光は、知盛だけを標的にしている。
「この女房が死んだ菜摘姫だと?」
「信じないならそれでいいさ・・・・・・だが、俺は嘘をつくほど暇じゃあない」
それはそうだ。暑い暑いと口癖のように言い続け、道中も何一つ自分から動こうと思わなかった彼が、わざわざ望美を連れてきたり、
寺に行ったり、あまつさえ死体を検分しているのだ。それなりの確証があっての発言だろう。
だが、実際にこの眼で現場を見てしまった将臣には、俄かに信じがたかった。
「中納言様、いかなるお心でかようなことを仰るのか、皆目見当がつきかねまする」
「そうか?」
「と、知盛・・・・・・ほんとに、この人が菜摘さんなの?」
「死んだのは別人だ。その、村瀬という女房が殺された可能性が……高い」
「わかんねぇよ。判るように説明しやがれ」
にがりきった口調で将臣が請う。ようやっと腕から抜けた望美はそうだといって頷く。今日一日、
知盛に付き合って山寺くんだりまで行ったのだ。それに、将臣の嫌疑が晴れる。
「どういうことなの、知盛」
「性急なお嬢さんだな・・・・・・お前の幼馴染は・・・・・・」
あてつけがましくため息をついたころ。
満ちた月がようやく顔を出していた。
知盛は緩慢な仕草で琴に触れた。不調和音が母屋に鳴る。
「・・・・・・村瀬、という女房を『菜摘姫』に仕立て上げたのは、還俗する時じゃあないか?」
「・・・・・・」
女房は黙っている。
「あの宴の日。その村瀬とやらに薬を飲ませ、殺し、火鉢に顔を突っ込んだ」
「中納言様、戯言はおやめくださいませ。なぜ私がそのようなこと」
女房の視線は密度を増して知盛を射抜く。それをにいと笑った口元でやり過ごすと、また気まぐれに琴を爪弾いた。
「顔を・・・・・・」
「?」
「純粋に顔を潰すためだろう・・・・・・」
知盛の一言に、将臣がはっとする。
「まさか――入れ替わりを隠すために顔をつぶしたって言うのか?しかし・・・・・・あぁ、伊周殿は数回しか顔をあわせた
ことがないと・・・・・・」
「それ以外になにか理由があるか?」
「待ってよ。そんなこと出来るの?だっておんなじ家に住んでるんでしょう?お父さんだって気づくはずよ!」
望美は問いかけながら女房を見る。立ち姿は先ほどと寸分も違わないが、どこか揺らいでいるようにも思える。
そう思うのは、灯明が風に揺れたからか――
「そうでもないさ・・・・・・離れて成長した娘と、暮らし始めたのは還俗してからのこと」
還俗してからこの屋敷で生活していたが、屋敷にて顔を合わせたことはたった数回だと伊周が認めている。だから、
知盛の言うことに十分な可能性があるのだ。そう思い当たって、将臣は女房に視線を移す。
「・・・・・・」
黙りこんだ表情は一向に感情を窺うことが出来ない。
「そして、異変を知らされた有川がここに来る」
事実だ。将臣は菜摘が苦しんでいるといわれてここに来た。死体を見た。嫌疑をかけられた。
「短刀を、死体に刺してこの有川に握らせてから――大方、悲鳴でも上げたんじゃないか?」
「待てよ。俺は一人でここに来たぜ?」
知盛は女房から視線を外し、将臣に焦点を移した。目元が煩げにしかめられているのは、己の無知さを責めているのか、灯明が眩しいのか。
軍議で馬鹿な発言をしたあとのような気分を、将臣は味わった。
「なあ、有川。お前がここに来てから、他の者が来るまでに、どれくらい時間がかかった?」
「それ、は・・・・・・」
「覚えてなかろう?」
いやに確信を持った言い方だが、事実将臣の記憶は混沌としていて不確かなものだ。死体を見てから誰がどの順に来たかはわからない。
ただ、気づいたら知盛がいたことはわかる。
「もう一度、思い出してみろ・・・・・・ここに来る直前、何をしていた?」
「そりゃあ・・・・・・酒呑んでたさ」
「それだな」
唐突に将臣から視線を外し、再び女房に合わせる。それにつられるように、望美も視線を女房に移した。やはり、彼女のまとう気配の揺らぎが、
大きくなっている気がする――
衣擦れの音がやけに響いた。
「痺れ薬か眠り薬か、今となっては定かではないが――何か入っていたのだろう」
「・・・・・・え?」
――苦いと、思った・・・・・
のは、伊周の側近の言葉ではなく、酒だというのか。そうかもしれない。
「酒も戦も強いお前が、あのように呆けるところなぞ、ついぞお眼にかかったことがない」
確かに、あれほどまでに前後不覚に朦朧としたのは久しぶりだった。こちらに来てから夜通しの宴で酔ったのは初めのうちだけだし、
戦の陣頭を取るようになってからは酔うことすらまれになっていた。ましてや、今は熊野にいるのだ。
お気楽に酔えるほど、将臣の神経は図太くはない。
「何、動かない肉に短刀を刺して抜くだけだ。そこらの童子だって出来る」
「刺されて、死んだんじゃないのか・・・・・・?」
「生きているうちに短刀が抜かれたのならば、もっと血が飛び散るさ・・・・・・」
知盛の言うことは判る。戦で返り血をいやというほど浴びてきた。漫画やドラマで見るほど、血というのはやさしくはないのだ。
吹き出るときは音を立てて吹き出るし、もっとずっと粘着質で匂いも消えない。
――あぁ、
だから、知盛はあの時、「綺麗なもんだな」と一言言ったのか。ようやく、将臣に合点がいった。
「で、でも!その短刀は将臣くんのものだったんでしょう?」
「盗み出すことくらい、なんてことはないさ・・・・・・」
「それにしたって、じゃあなんで菜摘さんが死んだと、みんな思って・・・・・・」
望美は混乱し始めた頭を何とか回転させて言葉を紡ぐ。
死んだのは村瀬という女房で、殺したのは菜摘姫で、でもみんなは菜摘姫が死んだと思っていて・・・・・・わけがわからない。そもそも、
なぜ菜摘姫が死んだと皆一様に思うのだ?
「菜摘姫は、浅黄の小袿を好んで着ていたのだろう?あの日も」
藤衣の裾が震えている。身にまとう本人が震えている。
望美の脳裏には、見たことの無い、顔を焼かれた死体が浮かび上がった。死体は、この部屋の主が好んで着た色の衣を纏っていたという。
女房が主の様子がおかしいと騒ぐ。駆けつけた人は浅黄の衣をまとって死んでいる女を見つける。
それは、姿をめったに見せない菜摘姫が好んだ――
――だから・・・・・・みんなで死んだのは菜摘姫だと
すっきりした。
「短刀は、有川がやったということにするためのものだろうな。あの伊周殿ならば、隠蔽すると踏んでのことだろうが・・・・・・」
知盛は片頬だけで薄く笑った。
「人選が悪かったな、菜摘姫・・・・・・?」
女房は一度伏せた面をさっと上げ、何かをこらえるように言い放った。
「お待ちくださいませ。わたくしめが菜摘様だという証拠はおありでしょうか」
幾分か声が震えているのは、きっと気のせいではない。
彼女の肩越しに見える外は夜の帳が完全に支配し、昼間の色濃い影ではなく、青白い光の落とす柔らかな影が庭を彩っている。夜に見ても計算された庭だった。
「では、琴を一曲弾いていただこうか。伊周殿いわく、菜摘姫は琴の上手だとか」
意地の悪い注文に、女房の頬がさっと紅潮した。構わず、知盛は琴から離れ、憎たらしいくらい優雅な手つきで彼女を招いた。
「どうした?これほどの琴をあつらえるならば、相当の腕の持ち主なのだろう・・・・・・・?」
「うう・・・・・・」
「今調子が悪いならば、いくらでも待つぜ・・・・・・何しろ、本宮へはまだ通れないのだからな・・・・・・」
「うう・・・・・・」
琴を前にして、女房はただうち震えるだけである。薄い双肩が忙しなく上下し、荒い息遣いに混じって嗚咽が耳に届く。
だが、その場の誰一人として彼女をいたわる動きを見せるものはなかった。
よくしゃべるちもですいません orz
てゆーかいろいろすいませ・・・・・・!