空蝉 7





「あれ、お前・・・・・・」

車宿に行くと、将臣は思いのほかあっけらかんと出迎えてくれた。

「なんでここにいんだよ?あれ、知盛は?」

食事が終わったころあいを見計らっていたのだろう、家人がひとり食器を片しに来た。 少々不躾な視線を向けられたのは気のせいだということにしておいて――望美は将臣を伴って、ここじゃなんだからと東の対に戻る。

「遺体を確認しに行ったよ。それよりも!知盛から全部聞いたよ・・・・・・」

「あ〜、心配かけてごめんな」

うつむき加減でこぶしを作る望美に、くしゃりと頭を一撫でしてやる。知盛が出かけた理由が目の前の女だとは意外すぎるが、 こうして会えたのだから感謝するべきだろう。

「で、どこ行ってきたんだ?」

「えーとね、お寺様だよ。菜摘さんがいたっていう・・・・・・なんて名前のお寺だったかな?」

「寺ぁ!?何でまたそんなとこに」

「わかんない」

知盛には知盛なりに何か思うことがあって訪れたのだろうけれど、面会した尼僧との会話はぽんぽん飛んでしまうし、 望美にはさっぱり意図が汲めなかった。あの重苦しい空気の中で呼吸するだけでも精一杯だったし、 この件に関してさして情報があったわけじゃない。
というようなことを将臣に話すと、やはり苦笑して頭を撫でてくれた。

「約束、破ってごめんな」

「いいよ、無事だったんだから。それより!あたしこれから西の対に行かなくちゃ行けないの」

「なんで?」

「穢れを祓うって約束しちゃって・・・・・・」

やり方がわからない、というと、なんとかなるさと限りなく適当な返事が返ってきたのは言うまでもない。





西の対は案の定がらんとしていた。
「何も手をつけるな」と知盛が釘をさしていたせいもあって、その場面を見ていない望美も、こびりついた匂いや立ち込める鬱蒼とした雰囲気に、 無意識に将臣の衣を掴んだ。この対で休んでいた女房は皆、北の対、つまり伊周の正妻が住むところへ移ったらしい。

「将臣君・・・・・・ここって、寝殿を小さくしたみたいだね」

「ん?ああ、寝殿造りってのはもともと寝殿とそのおまけみたいなもんだからな」

「おまけ?」

「そー。寝殿と、それを小さくしたのを左右、つまり東西にコの字型に作るんだ。で、庭はコの字のあいてるところに作るんだな」

「へぇ・・・・・・」

「で、寝殿と東西の対は直角に連結してるだろ?東の対は西を、西の対は東を正面に作ってあるんだ」

将臣は両手でTの字を作りながら説明した。

「で、こっからがややこしいンだけど・・・・・・」

「何?」

「今、俺たちが通った廊下はどの方角にある?」

悪戯めいた視線で聞いてくるので、望美は後ろを振り返りながら答えた。

「東の対が見えるから・・・・・・東」

「正解。でも、ここじゃ南廂って言うんだ」

「はい?東にあるから東廂じゃなくて?」

望美の質問に、将臣は腰に両手を当てながら苦笑した。

「いいか、あくまでも正面は『南』なんだよ。だから、正面に作られた廂は東向いてようが西だろうが『南廂』って呼ぶんだな」

「正面なんかわかんないよ・・・・・・」

「はは、庭に面してるのが『正面』って考えりゃまず間違いはねぇな」

ふうん、と望美はわかったようなそうでないような相槌を打つ。学校の授業で古文があったけれど、先生だってここまで詳しくは教えて くれなかった。

「将臣君、詳しいね」

「そりゃ三年もいりゃあな」

西の対は至って簡素だった。これが本当にあの伊周の娘の部屋かと思うくらいだ。
南廂(方角としては東を向いている)を横切って御簾の中に入り、灯明に火をつける。すると、真っ白な布で囲われた御帳台が存在感を露にする。 ここで、通常ならば主が起居するのであるが――言うまでもなく、その主はとうに彼岸の人だ。ついで、視線を移すと見事な琴が眼に入る。

「琴・・・・・・だよね、これ」

「ああ。これが琵琶に見えたら弁慶に診てもらえ」

憎まれ口を飄々と叩く様はまるで嫌疑をかけられている人物とは思えない。もっとも、望美も将臣が話に聞いたような凶行をしでかすとは信じ られないので気にしてはいない。
西の対の、菜摘姫の部屋の構造は大きく分けると二つから成る。
今二人がいる母屋(もや)と、遺体が発見された塗籠。母屋は衣架(いか)という、現代にいたときに呉服屋さんで見かけたような着物を広げてか けられるもので二つに仕切られていた。その片方に御帳台があり、もう一方は畳が二枚敷いてあるだけの空間だ。こちらで食事をしたりしたのだろう。 が、先ほどまでいた寝殿や東の対に比べ、圧倒的に装飾品が少ない。
だから、琴だけが異物のようにこの部屋から浮き上がってみえるのだ。

――うーん・・・・・・尼様だったから?

首を傾げる望美をよそに、将臣は塗籠とつながる妻戸に手をかける。
あの夜も、こうしてこの戸を開けた。

「・・・・・・」

こちらは陽のさす隙間がない、本当に真っ暗だった。
妻戸を開けて直接中が見えないように几帳が立てられているのだが、ここにそれがない。代わりに、やはり畳を二枚敷いた中央に、あの火鉢があった。
この空間に至るには、こうして母屋から来るか、もしくは釣殿から伸びる渡殿を通り、西廂―方角としては部屋の南側に当たる廊下―に面した妻戸しかない。
宴のことを思い出してみる。釣殿に人は居なかったはずだ。暑さを嫌って寝殿の簀子で酒を酌み交わしていたが、釣殿に人の気配を感じなかった。 仮に、釣殿に人がいたとしても、移動するのが渡殿で見えたはず。

「・・・・・・」

つまり、あの宴の最中に、もう一方の妻戸は機能していなかったことになる。
寝殿を伝ってこの西の対に至るとすれば、簀子にいた将臣と伊周がその姿を見かけたはずだ。庭を突っ切るなどは論外である。

――そんな人間はいなかった

伊周の話を半分しか聞いていなかった将臣は、きょろきょろと見渡していたから自信をもって言える。第一、 あの時は気分が悪いといって菜摘は早々に下がった。
何かあればそばにいた女房がそれなりの反応をするに違いない。

――俺が来たときは・・・・・・

火鉢に顔を突っ込んだ菜摘姫がいた。
普通に考えて、火鉢に顔を入れただけで死ぬとは思えない。だから、胸を刺されてから火鉢に突っ込んだと考えるのが自然である。 それを裏付けるように火鉢の灰おろか、菜摘姫自身の衣に乱れはなかったのではないか。

――ええと・・・・・・俺が来て、あの女房が来て、悲鳴が聞こえて、伊周殿が来て

何か引っかかる。
塗籠の前で立ったまま、将臣は必死に記憶の糸をたぐる。
部外者はなかったと、一様に門番は口をそろえた。屋敷を囲む塀も、おいそれと越えられるようなものではない。
また、祝言を控えた姫が自害するかという思いもある。それとも、自害してしまうほど祝言を嫌ったのか。
菜摘姫の胸中は永遠の謎である。が、あの伊周ならば、本当に自害したとしても犯人をでっち上げて他殺ということにしてしまうだろう。伊周とは、そういう人物だ。

「将臣君?どうしたの?」

斜め後ろから望美が顔を覗き込んできた。頭の動きに従って、さらりと藤色の髪が流れる。新緑の双眸はまっすぐに見つめてくれる。その視線に、自分への軽蔑も疑いもないことが、 将臣にとってなにより嬉しい。

「思い出してた」

「あの・・・・・・夜のこと?」

「ああ。あの日、酒がたたってな。飲んですぐ動いたのも悪かったんだろうが――酔いが回った」

「覚えてないの?」

覚えてないというより、うまくつかめないという感覚のほうが正しい。何か取っ掛かりがあればこの手にきちんと捕まえられるのに、 その取っ掛かりが何だかわからない。ついでに亡羊とした記憶には気分の悪さがやけにまとわりついているのだ。

「何かおかしいんだよなぁ・・・・・・」

そうは思えど、これとこれがこういう風におかしいと説明できないからまどろっこしい。
もう一度、最初から記憶を整理してみる。
宴だと呼ばれて、知盛は仮病を使って出なかった。暑さに対する愚痴を挨拶代わりに酒を飲み始めた。相手はもちろん伊周である。 女房がさざめくように笑った。菜摘が気分が悪いと言い出した。

――それから・・・・・・

伊周が、妻を呼ぼうといって席を立った。具合が悪いなら無理をさせるなと諌めたが、意味はなかった。
黙り込んだ将臣を、心配そうに望美は見つめる。この顔を知っている。こういうときに邪魔しちゃだめだと幼馴染の勘でわかりきっているので、 とにかく待つだけである。
しんとした対は二人を無感動に受け入れ、何の気なしに庭を見やれば、日が暮れていた。夕日は赤い光を地上に名残惜しそうにとどめなが 山の向こうに行ってしまう。宵の明星が光っている。

――それから・・・・・・

菜摘付の女房が、宴を辞した詫びにと酒を持ってきた。持ってきて、主が心配だといってすぐに西の対に消えていった。伊周は戻ってこなかった。

――それで、どうなった?

伊周の側近が酒を注ぎ、飲み干し、

――平家は内裏にふさわしいの何のかんのと・・・・・・

言われ、酒を注がれ、また飲み干し、

――苦い、と思った・・・・・・

そうして、月を見上げたら、あの女房が慌ててこちらに来て、西の対に行って、御帳台の布を跳ね上げて、匂いを嗅いで、胸焼けを感じて、この妻戸を開けて、

――菜摘姫が・・・・・・

白い手が、天井を向いていたのだ。













寝殿造りの説明とまさおの回想で終わっちゃったYO!・・・・・・orz