空蝉 6
見慣れない娘を、中納言御自ら馬に乗せてつれてきたとあって、望美に対する態度は丁寧そのものであったが、
新たなる客人に屋敷は再び浮き足立った。初めて見えた伊周に、知盛は嘘と事実をうまく交えて望美を紹介した。
「これはこれは・・・・・・かような騒ぎで、十分におもてなし出来ぬ無礼をご容赦いただきたい」
かしこまった口調で頭を下げてはくれるが、視線に打算めいたものを感じ取り、望美は伊周から視線をそらした。
計算され、力を示すような庭は眼前に無責任に広がっている。きらりと池の水面に太陽光が反射し、
枝振りを矯正された松から落ちる影は伸びていた。屋敷のどこもかしこも綺麗に飾られていて、これはこれで息が詰まりそうだ。
――菜摘さんは・・・・・あの西の対で
ぼんやりとその方向を見ているのを、目敏く見つけた伊周は、笑顔を貼り付けたまま言った。
「あちらは・・・・・・その、菜摘が」
「あそこで殺された・・・・・・のですか」
「は、はぁ。それで、その」
「ええ、すぐにでも取り掛かりましょう」
愛想笑いをうまく浮かべ、望美は隣の知盛を見やる。「どんな穢れでもはらってしまう高名な神子で、熊野詣での道行きを追ってきた女」と適当に紹介
した本人はそ知らぬふりをしていた。
―祓うっていっても・・・・・・
あの言葉を上げるわけにもいかないだろう。
―ど、どうしよう・・・・・・
現代で、せめて神社での行事を見ておけばよかった、と後悔しても遅い。神官が行うことは、誰でも思い浮かべる、榊に白い紙をつけて意味不明の呪文を唱えながら左右に振る、
あの光景しか思い浮かばない。祓えといわれても、やり方がわからない。
―うーん、なるようになるかなぁ・・・・・・
心の中で小さく首をかしげたとき、知盛が唐突に言った。
「還内府はどうしている?」
その問いに答えたのは伊周本人ではなく、通された寝殿の階の下に控えた家人だった。
「還内府殿は車宿にて控えておられまする。さきほど、お食事をお運びいたしました」
「変わりないならばそれでいい・・・・・・」
跪いて言葉を紡ぐ家人に一度も眼を向けることなく、知盛はあっさりと言い切る。なんやかんやと将臣のことを気にかけているのが、望美には面白くて仕方ない。
沈みきった屋敷で笑うことは憚れるが、知盛はお構いなしである。
「もう一度、遺体を改めたいのだが?」
「ちゅ、中納言殿?」
「どこに置いた?」
焦る伊周を置いて、さっさと腰を上げてしまう。
「恐れながら中納言殿。菜摘は黄泉路へ旅立っておりまする。死してなお・・・・・・」
「見せろ、と言っている」
戦に出たことのない伊周には、知盛の刺し殺すような視線は耐えられなくて当然だ。ひいと小さく悲鳴をあげて、家人を呼びつけた。知盛を案内するように言うと、そそくさと姿を消した。
呼ばれた家人は家人で、とばっちりを受けたようなものである。誰だって腐り始めた死体は見たくない。
「で、ではご案内いたしまする・・・・・・」
もうこれ以上ないくらい腰を低くして歩き出したので、望美もついて行こうと足を進めたとき。またもやいきなり知盛が振り向いて言った。
「神子殿は先に有川にお会いになるといい・・・・・・死体なぞ、戦場で見慣れているであろう?」
「え?」
虚を突かれて、なんと反応したものかと迷ってしまうが、これはこの男なりの気遣いなのだろう。知盛は望美が曖昧に頷く間にさっさと背を向けてしまう。
「お待ちくださりませ――」
凛とした声が響いた。
暑気の中でぴんと一本の直線を保つ声とも言おうか。雑踏中でこの声で呼ばれたら振り向かずにはいられない、そんな声である。
「お前は・・・・・・・」
「御付女房の身分ながら、中納言様に奏上いたしますこと、お許しくださりませ」
南庭に面した廂から北の方へと案内される知盛の足を止めたのは、喪にふさわしくただ藤衣を身に纏っている女房。つややかな黒髪がはらりと一房、床にこぼれた。
ひれ伏してはいるが、彼女の美しさが垣間見えた。
「・・・・・・」
「中納言様、菜摘姫のご遺体をお改めいただくこと、ご容赦くださりませ」
「なぜだ」
短い言葉の端々にも、見据える視線にも、知盛は女房に対しての情というものが欠けている。徹底的に感情を排除した知盛は、
どこか作り物めいていていっそ酷薄である。
そうして、望美は、一度もこんな風に扱われたことがないと気づいたのだった。
「かような身分で諌言いたしますこと、お許しくださりまするか」
「面白い。・・・・・・申せ」
ちょっと首をかしげて言い放つ口調には、揶揄が戻ってきている。
女房は面を上げる。
「この処分は後ほどいくらでも・・・・・・」
「申せ、と言ったはずだが・・・・・・?」
「は」
再び面を下げる。
「・・・・・・中納言様は、菜摘姫の最期をお見届けなさったとお見受けいたしまする」
「相違ない、が?」
「なぜ今一度、ご遺体を改めなさる?」
「言わねばわからぬ、か・・・・・・」
風が吹いた。太陽の光に赤みがさし、東からは藍色がにじんできた。望美の目に、二人は逆光を浴びて黒い影のように見える。
立ったまま女房を無常に見下ろす知盛は腕を組んで言葉を待った。
「菜摘姫は、女人として屈辱的とも言うべき殺され方をされました・・・・・・あのような最期を遂げた方を、これ以上辱めるおつもりがおありでしょうか」
「屈辱的、ねぇ・・・・・・案外、菜摘とやらもああいうことを望んだかもしれぬが、な」
「中納言殿!お戯れはおやめくださりませ!」
「戯れてはおらん。戯れに死体を改めるほど趣味は悪くない」
声を荒げる女房を、心底煩わしそうに―いや、軽蔑の情を菫色の双眸に宿して、知盛はふんと鼻を鳴らした。話はそれだけかと問うと、
女房はまだ言い募ろうとする。それを、眼で押さえ込んで一言。
「なあ、それほどまでに・・・・・・俺を拒むのは、本当に故人の名誉のためか?」
意地の悪い言葉に、女房は返す言葉を失い、望美の存在も家人の存在もなにもかもを忘れてただうち泣いた。すすり泣きに背中を押されるように、
知盛は北の対に消えてゆく。望美はこの事件の枠組みがぼんやりと見えた気がした。
か・・・解決編はまだか・・・orz