空蝉 5



糞尿の匂いで眼が覚めた。
近くで牛車用の牛が間抜けに一回鳴いた。

――ここは

薄暗い車宿の中で、将臣は体を起こした。薄暗いのは、自分が牛車のなかに居るからか。 ああそうだと合点がいって、ようやく頭が回り始める。
まぶたを閉じれば、昨夜の光景がありありと浮かんでくるので、頭を振ってどうにか体を起こす。 酒がけだるさとなって腰に溜まっているようだ。大きくため息をついたのに答えるかのように、また牛が鳴いた。

「眼を覚まされましたか」

牛車の中で動く気配を察したのだろう。家人が御簾を上げて顔を覗かせた。

「このようなところに閉じ込めて申し訳ありません」

「いや、いい。伊周殿にしては寛大な処分だと思っておくさ」

差し出された水を一息に飲み干し、ようやく一息ついた。落ち着いて見れば、家人は昨晩の宴で指示を出した家人である。 こう見えても人の顔を覚えるのは得意なのだ。

「あいつ・・・・・・知盛はどうしてる?」

「は、中納言どのは先ほど外出されまして・・・・・・夕刻までには戻る、とおっしゃっておりました」

こんな状態でも物見遊山に出かけてしまうのが知盛らしいといえば知盛らしい。
こみ上げてきた苦笑を抑えることなく、将臣は再び寝転がった。
しかし、あの知盛がこんなに日が高いうちから活動するとは、不思議なことがあるものだとひとりごちた。 気にかかるのは望美との約束。正確な時間はわからないが、とうに約束した時間は過ぎているだろう。

――どうやって埋め合わせすっかな・・・・・・

こんな状況に置かれても、のんきに何を買ってやるか考え出すのが将臣の長所であり短所である。 知らぬ間に綺麗にされた右手をまじまじと眺め、再び眼を閉じた。




屋敷の中は先日とは違った意味で慌しい。
たった一人の正室の子が殺害されたことは言うまでもないが、宿下がりはおろか、遺体の処分まで出来ない とあっては家人から女房まで一様に困惑の色を示した。

「菜摘様が不憫でございまする・・・・・・」

袖を目元に当て、人目も気にせず泣いているのは、彼女つきの女房だった。早く遺体の埋葬を、と伊周に申し出ても、 伊周の返答は曖昧すぎて要領を得ない。

「しかしだな・・・・・・中納言殿が何もするなと・・・・・・」

確かに、知盛は出かけ際に顔を出し、こう言った。

――しばし出かけるが・・・・・・屋敷の人間を外に出すなよ?

苦い顔で承諾するしかないのを、とうに見越した言い方だった。伊周に女房が噛み付く。

「では、あのままにしろと!」

「いや・・・・・わしとて何とかしたいのだ。したいのだが・・・・・・」

「伊周様!」

盛夏のおり、魂を失った肉体の腐りは思うよりずっと早い。少しでもと思い、屋敷の北側で風通しの良い場所に安置しているが、 崩れていくのを止められるわけもなかった。
祝言の準備は葬儀の準備となり、あつらえた衣は主を失って行李の中にしまわれる。
もともと静寂を好む女主人であったが、こんな静けさは望んでいないはずだ。

「では、還内府殿を処分なさいませ!菜摘様は・・・・・・菜摘様は・・・・・・」

唇を食いしばる間から、嗚咽が漏れる。血の気のない女房を伊周は困りきった顔で眺めた。

「村瀬の気持ちはわからぬでもないが・・・・・・あの方は今や平家の棟梁。こうして車宿にお控えいただいているのも本来は無礼にあたる。 どうか、抑えてはくれまいか」

日に焼けた手を首筋にやり、疲れた口調で伊周は言う。一人娘を失って、昨晩のうちに泣ききったせいか、 代わりにぽっかりと穴が開いてしまったような心持である。
それに、いろいろと煩雑な用事に追われることになる。
菜摘は美しい―片手で足りるほどしか会ったことはないが―娘であった。
歌はあまり上手ではなかったが、時折釣殿から聞こえてくる琴の音は右に出る者はない。熊野詣でこの屋敷にとどまった公家の子息も、 あの音色に惹かれて求婚したようなものだ。
浅黄色の小袿を好み、還俗してなお、経典を手放さなかった。

――あの一族との繋がりが・・・・・・

菜摘の姉たちは皆、熊野でも屈指の家に嫁いでいた。そして、菜摘が公家と結ばれていれば内裏への足がかりを得るはずだったのだが― 平家に殺されたことを隠蔽できても、足がかりを失ったことには変わりない。

「中納言殿がお戻りになったらば、必ず奏上いたそう」

女の泣き声がうるさく耳にまとわりつくので、伊周はことさら短く言い切り、乱暴に下がらせた。
以前から体を壊して臥せっている正妻に、なんと言おうか考えているうちに時間は過ぎる。あの二人は病床の妻を気遣い、 無理をさせなかったが、娘の死を知ったらそのまま後を追ってしまいそうである。

――あぁ、なぜ・・・・・・

菜摘の死が、重たくのしかかってきて、誰か代わってくれまいかと天井を仰いだ。





「ねぇ、知盛・・・・・・」

「なんだ」

馬の上で揺られながら、望美は自分を後ろから抱きかかえている形になっている知盛を振り返りもせずに聞く。 つむじあたりから声が降ってくるが、さして不機嫌なわけではないらしい。

「これから、どこへ行くの?」

「有川の居る屋敷、だ・・・・・・」

「あのお寺と知り合いだった?」

「いいや・・・・・・」

揺られる視界は太陽の日差しを浴びてくっきりと浮かび上がっている。山を下り、林を抜け、 人と家の間を器用に馬を進めて行く。さすが戦になれただけのことはある。馬の扱いは天下一品じゃないかと望美は思った。
昼を過ぎてとうに久しい。風は、幾分かの清涼さをまとって流れていった。

「ねぇ、じゃあどうしてあのお寺だって判ったの?」

「何が」

「菜摘さんがあのお寺に出家したって」

「ああ・・・・・熊野で尼寺はそう多くない・・・・・・それに、伊周の娘を受け入れるほどの寺は、あそこくらい、だ・・・・・・」

「えぇ!じゃあ、ちゃんと調べて行ったわけじゃないの!?」

腕の中で望美が身じろぐので、手綱を握る手に力をこめる。ああそうだとため息混じりに返せば、呆れたような言葉が発せられた。

「はったりだったの・・・・・・」

「何か文句でもあるか?」

ひょいと片眉を上げて知盛は皮肉に笑う。こちらを向いて何かを言おうとする望美を、視線ひとつで黙らせると、馬足を速めた。
将臣が関係していなければ、こんな出来事はそよ風のようにやり過ごすつもりであった。 が、こうして容疑者の筆頭にその名前が挙げられている現状ではそうもいかない。奇妙な死に方をした女にはさして感想もないが、致し方ない。
知盛はやはり必要に迫られなければ腰を上げない人物であった。

「少し急ぐ・・・・・・つかまってろ」

言葉を終えるなり、望美が準備するのを確認もせず馬を早めた。
見えてきた屋敷の豪華さに、まず望美は息を呑んだ。ここが平家ゆかりの家であることを道中聞いてはいたが、こんなに立派なものだとは思いもよらなかったのだ。 腕の中で少しばかり身を固くしたのをさとく感じ取った知盛は、楽しげに目を細める。

「神子殿・・・・・・緊張しておいでか?」

「え、うん、ちょっとね」

京の、景時の屋敷にも引けをとらないのではないか、と頭の中で比べてみる。
この時代で流行の先端をいく京の屋敷に比べると、少し洗練さに欠けてしまうのだろうが、高い塀が敷地をぐるりと囲み、りっぱな門には舎人が突っ立っている。 それだけでも、この熊野である程度の地位を持っているのだと容易に―あのヒノエの足元に及ばないまでも―想像がついた。

「神子殿」

「判ってるよ。あたしが源氏側だってことは、内緒なんでしょう?」

「・・・・・・話が早くて大変助かる・・・・・さすがは神子殿、だな」

「からかわないで」

藤色の髪がふわりと舞い、焚き染めた香が二人の間の、わずかな空間で交じり合った。それは鼻腔をかすめ、なんともいえない気分になってしまう。 薄紅の衣に包んだ体は柔らかく、布越しに感じる熱はなぜか己をあおる。己に向ける新緑の瞳がくるくるかわるのだから、からかわずにはいられない。

「さて、これから屋敷に入るが、準備はよろしいかな?」

「うん・・・・・・」

斜め上から見下ろす顔は、戦で見たときと同じような顔つきをしていた。

――退屈しない、な・・・・・・

くっと、いつもの皮肉めいた笑みを知盛は浮かべた。











長い長い……(苦笑