空蝉 4
待ち合わせ場所に到着した望美の双眸が、大きく見開かれる。人ごみの中でもひときわ目立つ銀髪に、だらしなく着崩した直衣。
なのに色気を感じさせるのはどうしてだろう。
「と・・・・・・知盛?」
「あぁ、神子殿。お待ち申し上げておりました」
にやりと、慇懃な口調で言うが、その態度はこちらをからかっているものとしか思えない。望美は、挑発に乗ってしまう前に、務めて冷静に知盛に尋ねた。
「あの、将臣君は?」
待ち合わせに、まさか知盛一人でいるとは思わなかった。何しろ、将臣は「夕方にならないと行動しない」と苦笑交じりに言っていたのではないか。
しかも、言っていた本人がここにいないとは。
――夏風邪ひいちゃった、とか・・・・・・?
昨日は別段、変わったところはなかったはずだ。
三年離れていても、そこは幼馴染。彼の変化は彼以上に読み取ることができる。別にこれは思い込みというわけではなく、京で一緒に居たときもすぐにわかったのだ。
例えば、寝不足だとか、疲れが溜まってるだとか。
「ほう、神子殿はよほど還内府殿にご執着とみえる・・・・・・」
「なっ!そんなんじゃ!」
「それとも、妬いて欲しいのか?」
くっとのどの奥で笑われて、またしても挑発にのってしまったことを遅まきながら気づかされる。質がわるい。
何か言い返そうにも、言葉尻を捕らえてまた遊ばれるのがおちだ。そうそうに悟った望美は、藤色の髪を耳にかけながらもう一度聞いた。
「で、将臣君は?」
「・・・・・・」
「ねぇ、知盛?ちょっと黙らないでよ!」
聞いても、知盛はこちらを見たまま答えようとしない。むしろ、考え込んでしまったようである。じれた望美がさらに言おうとしたとき。
大きな手が伸びてきて、あっという間もなく腕を掴まれた。
「ちょ、ちょっと!痛いよ!」
「来ていただこうか・・・・・・神子殿」
声は、いつもより幾分か低めで、望美が黙るのに十分だった。
「え・・・・・・。まさか」
「神子殿は、有川を疑っておいでか?」
「何馬鹿言ってるのよ!将臣君が・・・・・・!」
「声がでかい」
ぴしゃりと言われて、望美はぐっと喉に言葉を押し戻すしかなかった。人気のない路地で体を寄せ合ってる様はまるで身分違いの逢引のようだが、
話の内容は色気もへったくれもない。
ことの次第を話し終えた知盛は、煩わしそうに眉をしかめる。
「本当なの?その・・・・・・菜摘さん、だっけ?彼女を殺したって・・・・・・」
「有川が無抵抗の女を殺すとは思えないな」
「そうだけど・・・・・・」
「今のところ、一番疑わしい、というだけさ・・・・・・」
将臣が疑われている、もっともな理由として、あの短刀のことがあった。
確かに、菜摘の部屋で見つけた短刀は将臣のものだった。もともとは知盛のものであったが、使う機会がなく―人を斬るにはやはり戦に限ると思うからであって―
埃にまみれていたのを、将臣が見つけ、そのまま彼が使うようになったのである。
もっとも、使用目的はきわめて平和的なものであったが。
「・・・・・・ね、なんで抵抗しなかったってわかるの?」
すこし声の調子を抑えて望美が尋ねる。それを、知盛はやや楽しげに笑って答えた。
「さすがは白龍の神子殿、だ・・・・・・聡明でいらっしゃることで」
「もう!ふざけてないで教えてよ!」
「着衣に乱れがなかった・・・・・というより、綺麗だった。それに・・・・・・」
「え?」
「いいさ・・・・・じきにわかる」
蝉時雨の間に、小鳥のさえずりがぴぃと響き渡った。太陽は天中に届こうかという時間である。落とされる影は色が濃く、
吹き抜ける風は潮を含んでややねっとりとしている。遠くで、陽炎がゆらいでいる。
沈黙が流れた後、民家の壁に寄りかかっていた知盛が唐突に身を起こした。
「と、知盛?」
「行くぞ・・・・・・」
「行くって・・・・・ど、どこへ?」
「さぁ・・・・・・さし当たっては、寺だな」
説明するのも面倒そうに、それだけ言うとさっさと歩き出した。望美はその後を追うしかない。何を考えているのか、
さっぱりわからないが、将臣のことを何とかしようとしているのだけは判る。
一陣の風が吹いて、望美の髪を乱すがその表情は明るかった。
その尼は貞心(ていしん)と名乗った。
皺に隠れた双眸は深い色合いをしていて、何色にも見え、同時に何色にも見えない。だが、膝の上で組まれた手から、
緩やかな曲線を描く双肩から、にこやかな気配は感じられない。
ただ只管、尼寺の静寂を破る二人に対しての拒絶だけが肌に突き刺さる。
寺の秩序は厳しい。寝る時間も起きる時間も食事の時間も、当然のごとく決まっている。
何をするにも修行であり、こうして向かい合っている時間も、傍目にはわからないが貞心は修行しているのである。
「本来ならば、男性は入山を赦されてはいないのですが」
読経で鍛えられた声は腹に響くようだ。貞心は続ける。
「淨海入道のご子息自らのおいでとあり、拙僧の一存で入山を許可いたしました」
「お心配り、痛み入りまする」
きりと口元を結び、ゆっくりと頭を下げる知盛は、普段の怠惰で奔放な姿から想像も出来ない。
――ふうん・・・・・・
なんだかんだ言っても良家の育ちなんだ、と場違いな感想を持ったとき。望美に、思いもよらない強い視線を向けてきた。
「そちらの方は・・・・・・本当に現人であらせられますか」
「え・・・・・・」
「常人とは異なる気を感じます。あなたは、一体何者です」
「あの、あたしは・・・・・・」
ここで名前を名乗っても意味がない。だが、こんなに面と向かって「お前は人か」と聞かれたのは生まれて初めてだ。
言葉が見つからない望美は、助けを求めるように隣の知盛を見た。
「こちらはこの世で稀有なる存在。ですが、入道が調伏せねばならない魔とは対極に位置するものでございます」
ご心配召されるな、と知盛は静かに牽制した。ぴんと張り詰めた空気はこの暑気にも関わらず背筋が寒くなるほどだ。やけに風通しがいいのはやはりここが山の中だからか。
それにしてもこの宿坊は薄暗かった。
「――して、如何なるお心でこちらへ参られました、知盛殿」
「菜摘、という女人がこちらの寺に出家したとか」
流麗に知盛は尋ねる。その問いに、貞心はほんのわずかに眉を寄せたかと思うと、ゆっくりと坊の外を見た。
薄い板で仕切られただけなのに、あちらとこちらでまるで世界が違う。
閉じ込められたような錯覚を、望美は感じた。
「えぇ、存じております。確か・・・・・・祖母君がお隠れになったのを契機にこの寺に参った娘でございまする」
それで、と貞心が促すので、知盛は表情ひとつ変えずに彼女の訃報を知らせた。が、目の前の尼は顔色を寸分も変えずにそうですか
と言ったきりだ。
「還俗してからも、拙僧に文を下さった、いい娘でございました」
「親類との接見を拒んだのは、理由があってのことですか?」
知盛の質問には脈略が欠けている。隣で聞いているだけの望美はついていくのが精一杯で、尼と彼の間に流れる火花というべき駆け引きに気づかなかった。
「さぁ。拙僧には人の心の内を測ることができかねますので・・・・・・ただ、俗世を捨ててこその修行でございましょう。
あの娘は静かに、勤めておりましたゆえに」
「一人で出家を?」
「いいえ。一人で出家するといったのを、数人がついてまいりました」
「左様でございますか・・・・・・」
それから、知盛は黙ってしまった。風向き次第で読経の声が流れ込んでくる。
重たい空気に肺から無理やり押し出す空気の音だけが聞こえて、薄暗さは一層募るばかりだ。
――何か言ってよお・・・・・・
自分が発言してもこの場にそぐわないことを承知してる望美は、ただ知盛か貞心の言葉を待つだけだ。
それに、ここにいると悪い想像ばかりしてしまう。
――将臣君・・・・・・何があったの?
沈黙を先に破ったのは知盛。
「菜摘姫は、無理に還俗させられたとか」
「伊周殿ですね」
「寄進を取り下げた、と聞きました」
唐突な知盛の言葉に、初めて貞心に表情らしい表情が垣間見え、人間臭さが望美を安心させた。貞心は、
教科書で見たことのある尼僧の像に色がついたような印象を受けるのだ。
「あの伊周殿は、仏を侮辱しておいでです」
「侮辱、とは」
「寄進は、喜捨に値いたします。喜捨とは―本来は喜と捨はまったく別なのですが―平たく申しますと、出家していない人が、
出家して修行を積んだと同じように徳を積む行為なのですが」
言葉を追うにつれ、貞心の口調は苦々しいものになり、眉が険しい皺をさらに寄せてゆく。
「あの伊周殿は、菜摘殿を還俗させないと今まで寄進した分を総て取り戻す、と申された」
「それに、屈したのですか」
「知盛殿!」
「ちょ、知盛・・・・・・」
斬って捨てるような知盛の発言に、女二人が全く逆の反応をした。一人は怒りをあらわにし、もう一方は慌てふためく。
話を細部まで理解したわけではないが、今の言葉がまずいのは望美にもわかった。
「いくら淨海入道のご子息とはいえ、かようなお言葉は赦しがたい!」
「ご不快こととは先刻承知で申しましたゆえ、お怒りをお納めいただきたい」
「・・・・・・」
「それで、どうされたのです」
しれっと一向に動じない知盛に呆れたのか、怒りを発散させるためか―どちらとも望美の目には判別がつかなかったが、
貞心は大きく息を吐き、促されるまま話を続けた。
「我らは、食事も―物を口に入れ、一噛み一噛みが修行と心得ておりまする。まして、断食をずっとするわけにも参りますまい。命なくては修行はなせませぬ。ましてや、あの伊周殿は、
返さぬのならば寺の本尊を売り払ってでも返してもらうと、強硬な態度で申してきた」
伊周の行動に、さすがの知盛も眉をしかめた。
「加えて、尼僧には戒律がございます。寺の秩序を乱すことを、菜摘殿は恐れましてな・・・・・・自ら還俗すると申し出ました」
「一つお伺いしたいのだが・・・・・・」
何かと聞き返してくる貞心に、知盛は最後の質問を投げかけた。
貞心はより一層強い言葉と口調で答えた。
「知盛殿、この期に及んで質の悪いご冗談はおっしゃいますな。かの姫に法号を与えたのも、俗世に戻る背中を見送ったのも、拙僧にございまする」
すいと背筋を伸ばし、まっすぐな視線を投げた尼僧は――やはり、菜摘の死を嘆いているのであった。
尼様との会話が……意外にも長く…。やけに活動的なちもです。
はやく解決しろよー……