空蝉 3




菜摘は年がいってから出来た、正室の生んだただ一人の子だ、と伊周はいう。
幼い頃は母と共に実家にて育ったが、母親がこの屋敷に戻っても、菜摘自身は祖母の下にとどまった。 高齢で夫を亡くして久しい祖母の下に居たいという願いを、伊周はしぶしぶながらも受け入れた。
出来れば自分の手元に置きたかったのだが、そのときは側室の生んだ二人の姉が強力に菜摘を拒んだ。
そうして、そのうちの一人が嫁いだと同時に、祖母が他界した。菜摘は当然のごとく出家すると言い張り、 葬儀が済むなり誰も口を挟む隙を与える間もなく実行した。
わずか、十五のときである。
伊周はとにかく気の済むようにと、そんな菜摘との距離をとることにしたのだった。だが、尼寺は家族とは言え、面会すら拒んだ。
その後、下の姉が嫁ぎ、長男の勧めもあって菜摘を呼び寄せることにしたのだが――これを、菜摘は手痛く跳ね除けた。いわく、己はとうに出家し、仏の道を歩むと決めた。 今更の口出しは無用である、と。伊周は思い悩んだ。妻の八重が訪ねていっても顔すら見せない。嫁いだ姉に様子を伺わせても一向に知れない。
だから、伊周はついに強硬手段に出た。

「それで・・・・・・寺への寄進を総て引き下げました」

苦虫を噛み潰したような顔で、眉間にこれ以上ないくらい皴寄せた当主を、知盛は無感動に見つめた。
東の対で話をしたいという伊周を無碍にも出来ず、こうしてわけのわからない「菜摘姫」の話を聞かされている。

「菜摘姫は熊野の寺に出家を・・・・・・?」

「はい」

「で、還俗したのが十八のときだと」

それからすぐに貴族の息子に見初められる計算になる。

――どうでもいいが、な・・・・・・

知盛は当主の手前、寝転ぶことこそ控えてはいるが、本当に興味がなかった。ただ、あの有川のことがどうにも解せなかった。

「・・・・・・有川は」

「は?」

「還内府殿、だ」

「ご無礼を承知で申し上げますが・・・・・・車宿にお移り頂いておりまする」

その一言で、ようやく知盛に合点がいった。
つまり、これまでの長話は、殺された娘がどれだけ可愛かったか、その娘を殺した犯人がどれだけ憎いかを伝えたかったのだ。 たとえ、その犯人が平家の棟梁であろうとも。

――本当は、すぐにでも手打ちにしたいところだろう・・・・・・

菫色の双眸を、きゅうっと引き絞って相手を見やるが、そこに慰めや同情といった感情は一切なかった。




事の次第は昨晩に遡る。
仮病を使って宴を逃れた知盛は、褥に酒を持ってもぐりこんでいたのだが、宴の喧騒で眠っては居なかった。そこに、比喩でなく泡食った家人が駆け込んできた。

「新中納言殿、お休みのところ失礼いたします!」

悪いと思うなら来るなと思ってももう遅い。家人は汗を額から流しながら言葉を続ける。

「か、還内府殿が・・・・・菜摘姫を」

「は?」

「菜摘姫を殺しました」

「・・・・・・本気か?」

思わず手にした杯を取りこぼしてしまった。
染み込んだ酒が不規則な模様を作るのを、どこかぼんやりと眺めていたように思う。
それから、とにかく急かされて西の対へ行くと―近付く度に、戦で嗅いだ肉の焼ける匂いがしたのだが―菜摘姫の遺体を前にしてうずくまる当主と、 呆然と座り込んだ将臣を見つけた。

「・・・・・・有川」

呼びかけても焦点の定まらない顔でこちらを振り仰ぐだけだ。その拍子に、からんと場違いな音を立てて短刀が落ちた。

「これは・・・・・・」

灯明の明かりの中でも判る。

柄に揚羽蝶の家紋が彫られた、間違いなく平家のものである。べっとりと、赤黒く染まるそれを、拾いあげたくせに無造作に放り投げると、知盛は改めて匂いの元を見た。
ぶすぶすと髪が燃える音が風の間を縫って耳に届く。夏にも関わらず出された火鉢に、首かから先を突っ込むようにして、浅黄の体が塗籠の中央にある。 誰一人として言葉を発しようとしない。白い手が、力を失って天井を向いていた。

「・・・・・・」

ふん、と鼻をひとつ鳴らして知盛は二人の間をすり抜け、背後に女房が控えているのも気にせず、肩に手を添えたかと思うと――一気に引き抜いた。
重たい音が辺りに響く。
顔が、ひどく焼け爛れていて、まるでそこだけ切り取ったようだ。
ひいと背後の女房がすくみあがり、足音も気にせずに逃げてゆく。知盛はやはり表情ひとつ変えず、じっくりと死体を見回した。 将臣と伊周の呼吸が荒くなってきた。

「・・・・・・綺麗なもんだな」

「え」

いつかの宴で見かけたときと同じ襲衣裳のまま、女は死んでいた。左上、心の臓あたりに血がにじんでいる。おそらく、短刀はここに刺さっていたのだろう。 将臣の右手をついでに見ると、やはり赤黒かった。

「・・・・・・有川、いつまで呆けてるつもりだ」

低い声で言い、頬を叩くとようやく我を取り戻した将臣がつぶやいた。

「俺はやってない・・・・・・」

「知れたことだ」

座り込んだ将臣を横目で見やりながら、知盛は家人を目ざとく見つけ、遺体の処理を指示する。 本来ならば当主である伊周がなすべきなのだろうが、彼は機能していない。叩いたら割れそうな月を見上げて、知盛はため息をついた。
動こうとしない人間を置き去りにして、東の対に戻るころ。
現実をやっと認識し己のうちで受け入れた伊周の慟哭があたりに満ちた。




それが昨晩のこと。菜摘姫の遺体を清め、北の方に安置し終えた伊周が落ち着きを取り戻し、知盛の下を訪れて現在に至る。
夜の暗闇は西のかなたへ追いやられ、海から新たな太陽が顔を出してもうどれくらい経ったろうか。眠気は一向に気にならないが、眼前の伊周は鬱蒼とした空気を 撒き散らしているようでどうにも気に食わない。あくびを小さくかみ殺して、さてと腰を上げた。

「・・・・・・知盛殿、どちらへ」

「この世で、もっとも穢れなき存在を・・・・・・お連れしよう」

昨夜から初めて、知盛は薄い唇で皮肉に笑った。










のんちゃんキターーーーーーーーー!
さくっと解決してくれよ、ちもりんこ……(こら