空蝉 2 




夜が来ることが、こんなに待ち遠しく思ったのは初めてではないだろうか。
あの公家が自分との結婚を決めてからというもの、苦痛でしかなかった夜が、こんなにも待ち遠しい。菜摘はゆっくりと扇で風を起こした。
幸いにして、今の屋敷はあの平家の二人を迎えることと祝言の準備で上を下への大騒ぎのはずだ。見栄っ張りの父はそんなことをおくびにも出さないが、 菜摘には判る。
緩慢な仕草で長い髪を纏める。
一度出家したのは祖母の死が原因だった。この屋敷から離れ、祖母の下で育った菜摘が出家を決意したのは当然のことで、あの手この手で還俗させたのは伊周にほかならない。 いやだいやだという自分を手元に置きたいがために、寺に圧力をかけたことを知っている。
だから、菜摘はささやかな反抗を見せてやった。
それが、こんなかたちで役立つとは思わなかった。





夜になると、また宴だった。当主の伊周は二人を毎晩もてなさないといけないでも思っているのだろうか。いい加減疲れてしまった将臣だが、 世話になっている手前、うまく断ることが出来なかった。それを見越していたのだろう。知盛は「体調が優れない」と迎えの女房に言い放つと、さっさと 横になってしまった。
そうして、将臣はますます退路を失うことになり、伊周(これちか)と対面することになった。

「中納言殿の体調はいかがでございますか、将臣殿」

「・・・・・・暑さにやられたようです。ま、寝てれば平気でしょう」

差し出された徳利に、手の中の杯を差し出す。ここの酒はうまいが、こう立て続けに飲んでは麻痺するというものである。薬師を呼ぼうかという申し出を、 簡潔に断ると―あの知盛はただの仮病なので―押し黙った。
到着した夜とさほど変わらない気温だが、今夜は幾許かの風があり、海辺なだけあって淡く潮の香りがする。いつものように寝殿の簀子に胡坐を掻いて座り、眼前に広がる池を見る。 さざめく水面に、満ちた月が崩れてはまたまん丸に戻るのを、しばし眺めた後。
ふと思いついたように伊周に言った。

「あぁ、菜摘姫に、祝いの品を贈りたいのですが、何か好きなものとかありますかね?」

かしこまった口調は得手ではなく、結果としてなにやらおかしな言葉になってしまう。
家人の間で苦笑が沸き起こった。

「いや、お気遣いは無用と申したはずですぞ、将臣殿・・・・・・しいて言えば、再び京に戻ってくださることが祝いの品になる、とでも申しますか」

やはり人の食えない笑みを浮かべて、伊周が答える。それを、はあなどといって適当にやり過ごすしか出来ない。もちろん、彼が言ったのは物理的に京に戻るという ことではなく、内裏に返り咲け、ということだ。
こういってはなんだが、末姫の祝いにしてはおつりがくるような要求だ。
並々と注がれた杯の表面に向かい、そうとは知れないようにため息を漏らしたのち、将臣は一気に飲み干した。宴はまだ始まったばかり。これから、伊周の側近たちがやってきて、平家復興をと 口々に言うに違いない。だったら、今のうちに酔ってしまったほうが得策だ。
別に平家を復興させたいわけじゃない、というのが将臣の本音。それをとうに見抜いているのは知盛だけだった。ただ、この世界に放り出された自分を手厚く迎え入れてくれた人々が弾圧される姿が見た くなかっただけの話で、正直言えば還内府と呼ばれてもまだその実感が沸かない。
まるで、自分の影が一人歩きしてるような錯覚に陥る。

――無責任、かもしんねぇな・・・・・・

月に答えを求めるように見上げたその時。中座した伊周と入れ替わりに慌しい足音が近付いてきて、女房がつんのめって南庭の地面に顔面から転んだ。

「おい!」

「こ、これは無礼を・・・・・・お許しくださいませ!」

慌ててひれ伏す彼女を、階を降りて起こしてやる。見れば、それは菜摘姫つきの女房だった。

「いいから!何かあったのか?」

「それが・・・・・・姫様のご様子が思わしくなく・・・・・・」

「何だって?」

菜摘姫は、宴の始まりこそ姿を確認してはいたが、すぐに気分が悪いといって下がったはずだった。

「それで、何だってそんなに慌ててるんだ?」

「その、ご気分が悪いと申された後、ひどく苦しみだして・・・・・・」

「吐いたのか?」

「それが、部屋に入れてくださらないのです。下がれと申されまして・・・・・・けれど、その、うめくようなお声だけが」

両腕を掴み、立たせた女房は顔色が真っ青だった。恐怖におびえるためか、両目が潤んでいる。

「鳴神さまが・・・・・・」

「え?」

「鳴神さまが姫さまを連れて行ってしまいます・・・・・・!」

すがりつく女房からたちこめる香りに、悪酔いしてしまいそうだ。くらくらしてきた頭を振り、その辺にいた家人を呼びつけ、伊周に伝えるよう声を張り上げる。 はっと軽く頭を下げて家人が行ってしまうと、とりあえず将臣は階に彼女を座らせ、自分は西の対へと足を運んだ。
令嬢の部屋に、何の断りもなく入ることの意味を知らないわけじゃない。三年もこちらの世界にいるのだ。いい加減、文化や風習にもなれた。が、今はそんなことを言っている場合ではない。 南庭を突っ切って、西の対から伸びる階に足をかける。
奇妙な匂いがした。
この匂いを知っている。
どこでかいだ匂いだと思いつつも、酒の回った頭は容易に答えを出してはくれない。
ただ、嫌な胸騒ぎがざわりと波立った。
廂を横切り、一声かけて、御帳台の布をめくりあげるが、人の姿はない。
あたりはしんと静まり返り、匂いだけが一層濃くなる。

「菜摘姫?」

将臣の声が掠れている。

「菜摘姫」

答えるはずの、この部屋の主の声はどこへ行った?嫌な予感がまた、ざわりざわりとしてきた。
そうして、塗籠へと続く妻戸に手をかけ、一気に開けた瞬間。
将臣の意識は糸で後頭部からすうと抜き取られるように飛んでしまった。

――あぁ、

将臣が見たもの。
火鉢に首から先を突っ込んだ、浅黄の小袿に薄紅の五衣を纏った――菜摘姫だった。












姉さん……!事件です!(誰
こっからどうやってちもを探偵に仕立て上げるか……ここで切ります(うへへ