空蝉 10




事実を知った伊周は一瞬で卒倒した。
無理もない。
今まで顎先で使っていた女房が、己の愛娘で且つ顔も合わせたことがないと思っていた女はただの 女房――乳母姉妹の村瀬だったのだ。
だが、予想したほどの混乱は起きなかった。目覚めてすぐに事態の収拾、つまり隠蔽に走った彼はやはりこの熊野である 程度の地位を保つ人物なのである。
月を肴に、三人は東の対の南廂(方角からすると西を向いている)で杯をかわしていた。

「ね、知盛」

うまいが酒の度数は計り知れない。白濁の液体を舌先に触れるだけにしている望美は、右隣にいる知盛を見た。 月光に照らされた彼は、気高く、心臓がひとつ大きく跳ねた。

「・・・・・・なんだ」

「どうして菜摘さんが菜摘さんじゃないってわかったの?」

「・・・・・・」

無言で杯を口元に運ぶ。横顔からはこの酒がうまいのかまずいのか判らないが、黙って呑むところを見ると、 案外気に入ったのかもしれないと将臣は思う。

「・・・・・・例えば、部屋に二人いて、一方が死んでたら、どう思う?」

「え?」

「もう一方が殺したに決まっているだろう・・・・・・?」

視線だけよこされて、望美は曖昧に頷いた。とぎまぎしてしまうのは、本で読んだようなミステリの解決現場にいたせいだと自分に言い聞かせて 、話の続きを待つ。

「あの日、あの対に近づけたのは、御付女房と菜摘姫本人だけだったろう・・・・・・」

「え、うん」

「だから、菜摘という人間が殺されたのなら、女房が殺したに決まっているさ」

だらしなく着崩した彼は、うんざりだと言いたげにごろりと横になる。それでも自分専用の徳利を手放さないのはさすがだ。 ついでに、寝転がったままで酒を注ぐ仕草は手馴れている。いつも、こうして呑んでいるのだろう。

「それじゃ答えになってねぇよ、知盛。だからなんで死んだのが菜摘姫本人じゃないってわかったんだ?」

「有川・・・・・・少しは自分で考えろ」

肩越しに冷たく言う。それでも口を開くところを見ると、きちんと説明するつもりがあるようだ。

「・・・・・・別に確証があったわけじゃあないんだがな」

「そうなの?」

「ああ。あの寺で、貞心入道が言っていたろう?」

――還俗してからも、文をくださった、いい娘でした・・・・・・

「文を書くのは、和歌の心得があるからだ。けれど、伊周殿は『菜摘は和歌は下手だ』といった。だから――」

別人だと気づいたというのか。
将臣は黙って酒を飲んでいる。やはり、仰々しい宴で呑むよりも、こうして気楽に気楽な仲間と呑んでいるほうがうまいと思う。 現代にいたころからちょくちょく父親の晩酌に付き合っていたが、あのころは酒のうまさなどわからなかった。

「へぇ・・・・・・お前も、いろいろと考えてんだな」

「お言葉だな、有川」

風がそよいで、三人の間をすり抜けていく。月は天頂に達しようとしている頃合だ。庭の水面が不意にざわめき、また風が吹いた。

「菜摘姫、どうしてこんなこと・・・・・・」

「さぁ、な・・・・・・」

知盛にとって、菜摘の動機などそこらへんの石くらいにどうでも良かった。殺すならば戦の、互いの命をさらけ出して殺すほうが何倍も愉しいと思うし、 女の胸中など察しようとしたことは一度もない。
わかりたくもないし、わからない――それが感想だった。
伸びやかに知盛が欠伸をする。それを見て、望美と将臣は顔を見合わせて笑った。

「眠いの?知盛?」

「普段動かねぇから、疲れてるんだろうよ」

知盛のおかげで助かったといっても過言ではないのだが、将臣の言葉は辛らつである。だが、そこに程よい柔らか味があり、 望美には二人が旧来の友人のように映った。

「あぁ・・・・・・疲れたさ。だが・・・・・・」

知盛はやおら起き上がって望美を意味深に見つめる。

「今宵の褥にお嬢さんがいれば・・・・・・すぐに吹き飛ぶ」

ぐっと酒を喉に詰まらせた将臣と、何も言えずにただぱくぱくする望美を見て、彼はにやりと笑った。
夜は何もしなくてもふけていく。
それから、三人は静かに酒を飲んだ。
村瀬の弔いのつもりで。





後に聞いた話である。
菜摘に求婚した公家は、伊周が招きいれた公家の息子だった。もともとこの公家との縁談は水面下で決まっており、熊野に来たのは参拝目的ではなく顔合わせのためだった。 そのときはさすがに菜摘は『菜摘姫』として彼に見えたらしいが、息子はあろうことか村瀬に心惹かれた。
菜摘は気まぐれに村瀬に琴を演奏させた。すると、その演奏にたいそう感激した公家の息子は最高級の琴を贈ったのだそうだ。 この話が誇張されて広まり、『菜摘姫』は琴の上手だとして周囲に認識された。伊周はこれをひどく自慢し、 訪れる人に吹聴したのだから、『菜摘姫』の『琴』は評判を上げる一方だったのである。


ちなみに、菜摘の法号は「是空」といった。
祖母に伊周に対する苦言ばかり聞いて育てられた、からっぽの菜摘に対して、貞心尼僧がつけたのである。

――これも、後に聞いた話だ。



*fin*









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あとがき

初めてここまで長い話を書きました。しかもミステリだといいつつトリックも何もないところがまた・・・・・・
いいんです。だってじゃんだもの(えー

それはさておき。ちょっと言葉の注釈を付け加えます。
まず、伊周(これちか)について。
この時代にいそうな名前〜ってことで考えたのですが、本当にいましたね。伊周。無関係ですのであしからず
ついでに、彼を伊勢平氏の流れに〜とかなんとか設定しましたが、なんとなくです
で、4と9に出てきた貞心さんも実在の人物です。ですが・・・・・・もちろん無関係です
彼女が仏教について少しお話していますが、禅の思想をベースにしているので、詳しい方で「あれ?」っと思ったかしれません
さいごに菜摘さん。
この人も歴史上の人物で、実は頼朝の妾の名前です。ちょっと拝借しました。
なお、「御付女房」という身分があったかどうかは全くの不明です。便宜上、そう呼んだだけですので・・・・・・

いろいろと書きましたが、いつものように正確ではありませんので、信じないでください。(特に寝殿造りのあたり)
ここまでお読みくださり、ありがとうごいざいます。
よろしければ次回があることを祈ってください。
思いついたら書きます。


5.26.2006  じゃん