――あぁ、頭ぐるぐるしちゃって逃げるしかないわ




Escape! Ver.弁慶




「望美さん!」


弁慶の、彼には珍しく慌てた声が彼女の背中を追いかける。

が、それは追いつくはずもなく、弁慶自身が腰を上げたときにはもう、玄関のドアが乱暴に開かれ小さな背中が 外に飛び出した後だった。

空は快晴。

五月だというのに、少し肌寒い陽気の中、弁慶も彼の愛しい恋人も靴をはかずに階段を駆け下りた。




ことの始まりは数時間前にさかのぼる。

彼の得意とする口上に乗ってしまい、想いは確実に通じたはずだったのにひとり現代に帰ってきた望美は、来る日も来る日も弁慶の身を 案じることと自分がこちらの時空に帰ってきたことを恨めしく思う日々を過ごしていた。

それもそのはずで、彼女はこちらに来てから調べたのだ。

今まであまり興味のなかった日本史の教科書を、日本史選択の友人から借りて、あのあと起こるであろう出来事を。


――そんな・・・・・・


おぼろげながら知っていた事を、詳細かつ綿密に知ったとき、上から下へと血が滑り落ちる音を聞いた。

鎌倉から謀反の疑いをかけられた九郎に付き従って奥州を頼るも、その後は――

ばたんと借り物の教科書を閉じ、ひたすらに願い呪った。


――どうして自分だけ戻ってきたの・・・・・・!


彼の胸中が痛いくらいに判る。

これからのことを容易に知りえたであろう彼は、巻き込むまいとして自分をこちらに送り返したに違いない。

仲間を失いたくない一心で運命を切り開いた望美には、透明なガラス越しに見るように判った。

だけど、彼――弁慶を死なせるためにあの時空をやり直したわけではない。


――お願いよ、お願い!


一度だけでいいからと声もなく呟いたとき。

自分の体から重力を感じなくなり、目の前が真っ白になった次の瞬間。


『弁慶さん・・・・・・』


見たのは、血に赤く染まった雪景色と、一人背中に無数の矢を受けて立ち尽くした弁慶。

笑って手を伸ばしたかった。

お疲れ様と言いたかった。

けれど、実際はくしゃくしゃに泣いていたと思う。

泣きながら手を伸ばし、それに彼は応えてくれた。

あの日から、数ヶ月が過ぎ、初めは戸惑っていた彼もすっかりこちらの生活になれた日のこと。

すぐに部屋をとっちらかすクセはこちらに居ても変わらず、迫り来る模試の勉強の合間を縫って彼の住むマンション に出向いてみた。


「望美さん・・・・・・!」

「こんにちは。いきなりごめんなさい」

「いいえ、君に会えるなんてうれしい誤算ですよ」


玄関を開けた弁慶の髪は、あちらにいたときよりも幾分か短くなっている。

あの長さでは悪目立ちすると――そうでなくても女性的な顔立ちの中にも男性特有の色気を感じさせる彼の容姿は十分に眼を引くのだが――そう 呟いた翌日にはばっさりと切ってしまった。

今はうなじで髪を結っても、こちらにいる分には違和感がないくらいの長さである。

さぁと望美を部屋に招き入れた弁慶は、そのままリビングのソファに座るように言った。


「あれ、結構綺麗ですね」

「いやだな。僕が部屋を散らかしていると思ってきてくれたんですか?」

「あはは、実はそうなんです」


弁慶さんはすぐ散らかすから、とまるで古女房のような口を利く望美に、さしもの弁慶は苦笑せざるを得ない。

望美の予想を裏切って、いつも雑多なリビングはあるべきものがあるべきところに収められ、洗濯物も溜まっている様子がない。

首を伸ばしてドアを開け放している寝室を覗きこめば、少し乱れたベッド以外は綺麗なものだった。


「僕に会いに来てくれたと思ったのに・・・・・・」

「べ、弁慶さん」

「君が模試の勉強をするといっていたから、僕は連絡も控えたのですよ?ひどい人だ、君は」

「や、違うんです!そうじゃなくて、部屋も気になってましたけど、それよりも・・・・・・!」


紅茶をテーブルに置きながら、弁慶の声色が少しずつ変わってゆく。

伏せている琥珀の瞳からは何も読み取れない。

望美は慌てて弁解を試みた。


「それよりも?」

「べ、弁慶さんに会いたかったっていうか・・・・・・」


言葉を口にする度に恥ずかしさを上塗りしていくようだ、と望美は思う。

無意識に顔ごと伏せてしまった望美は、弁慶が音を立てずにすぐそばに居ることも知らなかったし、腹に一物含んだ笑顔を浮かべている ことも知らなかった。


「と、いうか?」


楽しそうに弁慶が言葉尻をさらって促す。


「連絡、しなくて行っていいのかわからなかったし・・・・・・」

「それで?」

「部屋を片付けるためなら、合鍵使ってもいいかな、って・・・・・・」

「そうしたら、僕がいたんですね」

「はい」

「イヤでしたか?」


唐突に告げられた一言に、望美の顔が勢いよく上げられた。


「そんなこと・・・・・・!」


そうして、望美は白いシャツの胸元に導かれた。

休日の弁慶は限りなくラフな格好で、ちょっと太目のジーンズに、素肌に直接身に着けた白いシャツ。

窮屈さを嫌ってボタンを二つ三つ外した胸元から綺麗な鎖骨が見え隠れし、手ぐしで纏めただけの髪は後れ毛が望美の頬を掠めた。

それだけ、なのに胸がどんどん鼓動を早める。

抱きしめられるのはこれが初めてではないのに、緊張か期待か、その両方が綯い交ぜになったのか、いつも思わず身を固くしてしまう。


「ふふっ・・・・・・僕は、君が来てくれてうれしいですよ?」

「弁慶さん・・・・・・」

「君が久しぶりに来てくれたのに、部屋が散らかっていては嫌われるかもしれないから、 こうしてきちんとしていたんです」


弁慶が言葉を発するたび、目の前の喉仏が上下し、音が彼の薄い胸に響く。

それを頬に感じるのは、とても幸せで、なにものにも変えがたいこと。


「さて、きちんとしていたことについて、何かありませんか?」

「え、何か・・・・・・って?」

「ご褒美、ですよ」


顔を起こした望美は、またしてもやられたと思うだけ。

今のこの体勢から逃がさないというように、腰に回された手は力を込め、耳元で低く囁く口調はまるで子兎を狩る 狩人のそれに等しい。


「ご褒美って言われても・・・・・・」

「僕が欲しいものをください」


何?と首をかしげる仕草がなんとも愛らしく、弁慶はとろけてしまうかと思うほどの視線を向けてきた。


「そうですね・・・・・・例えば、この甘そうな唇、とか?」


言葉は質問のクセにいやに確信的で、望美は真っ赤になるより他の手段を思いつかなかった。

いただけますか、と耳朶に直接吹き込むように言われれば、体はさらに固くなるばかり。


「え・・・・・・っと」


窮地に陥った望美は、弁慶の長い指に唇をとらわれたまま、視線だけをフローリングの床に逃がした。

そうして見つけた細いもの。

見つけ出したのは、さすがは女の勘といったところか。

一瞬だけ自分の中が全部停止したかと思った次の瞬間には、弁慶の甘やかな束縛から身を逃し、かがんでつまみ上げた。

一本の、細い細い髪。

もちろん、自分の髪とも弁慶の今の髪の長さとも違う。

長さから推し量るに、女性のもの。

その一連の仕草を見ていた弁慶の瞳が、はっと大きく見開かれたかと思うと――小さな衝撃を胸に感じて、 あっという間に望美は玄関へと走っていった。

「望美さん!」




階段を駆け下りながら、望美の頭は憎らしいくらいに回転を早める。

つじつまが合ってしまう。

部屋が綺麗だったのも、「うれしい誤算」と弁慶が言ったことも。

きっと、この部屋に誰か――女性に決まっているが――来て、その証拠隠滅のために弁慶は部屋を片付けたに違いない。

いや、その人を迎え入れるために部屋を片付けたのか――どっちにしろどうでもいいことだ。

荒い息は耳元で聞こえて、自分のものではないように感じ、ついに階段を下り切った望美は行くべき道をしばし逡巡して立ち止まる。

後ろからあわただしい足音が迫ってくるが、気にしていられない。

ゆれる藤色の髪を追いかけながら、弁慶は不思議に思う。

あれは自分の、少し前の髪だ。

どんな勘違いをしたかは容易に想像がつくのだけれど、彼女は本当に自分から逃げられると思って 逃げているのだろうか。

それでも望美の脚は早い。

ほんの少しためらったと思いきや、腕を捕らえる前に左に逃げられてしまった。


「望美さん!」

「来ないでください!」


呼びすがっても、返ってきたのはぴしゃりと拒絶の言葉。

細身のタイトなジーンズに包まれた形のいい足が、その痛みも気にせず地面を蹴り、自分から遠ざかってゆく。

が、元荒法師では相手が悪い。

少し奥まった路地で、ついに華奢な腕を捕らえたのはほんの数分後のこと。

太陽の日差しが遮られた空間で、遠くの電車の音が響き渡った。


「望美さん、どうして逃げるのです?」

「だって、それは・・・・・・!」


髪の毛を見つけたときの弁慶の表情。

それは、望美の暗い想像を裏付けるのに十分すぎるくらいの威力を発揮している。

黒の膝丈までのワンピースに包まれた胸が荒く上下し、大きな新緑の瞳いっぱいに溜まった涙は今にも零れ落ちて しまいそうだった。

ワンピースの上に羽織った、ベルスリーブのカーディガンがずり落ちて、白く薄い肩を覗かせる。

生地との対比に、紅潮した頬に、弁慶の脳裏には全く別の場面が浮かんできて、思わず吸い付きたくなる衝動を抑えた。


「望美さん、落ち着いてください」

「だって、弁慶さん!あたしが来ないからって、他の人と・・・・・・!」

「他の人と、僕がどうしたというのです?」

「あんまりです・・・・・・」


声を震わせる望美は、弁慶の声がいつもの調子で低くなっていないことに気付くのが遅すぎた。

普段の、壊れ物を抱くような仕草ではなく、さらって自分の中に埋め込もうとするかのように、乱暴に抱きしめられたとき 、痛みに声も出せなかったほどだ。

このまま肋骨が折れるのではと片隅で思った反面、かすれた声に聴覚の総てが奪われる。


「何もしていませんし、誰とも関係を持ってはいません」

「・・・・・・べ、」

「僕には、君だけです」


痛みに体を捩れば、ようやく力が緩められた――と思いきや、降ってきたのは唇。

脳髄まで溶かされて、熱の総てを奪われて、全部食べられるのではないか、このキスは永遠に続くのではないか と思ってしまうようなキスだった。


「信じていただけましたか?」


唇を離した弁慶に、望美が許されたことはただ首を縦に動かすことだけ。

それを認めた弁慶は、らしくもなく強く彼女の手首を掴むとずんずん歩き出す。


「来週・・・・・・模試が終わったら迎えに行きます」

「えぇ!?」

「そのまま、君の家に行きましょう」

「ど、どうしてですか?」

「ご両親にご挨拶するため、ですよ」


さらにどうしてと聞かれる前に、弁慶は足を止めて振り返り、にこりと笑った。


「どうやら僕は信用されてないみたいですから、ね」

「ええ!そんなことは・・・・・・」

「あぁ、でもその前に、浴室にお湯を張ることが先みたいですね」

「べ、弁慶さん・・・・・・?」

「汚れてしまった君の足を、ちゃんと綺麗にしなくちゃ」


笑う弁慶の背後には、どこまでも澄んだ皐月の空が広がっていた。





*fin*










☆☆☆☆☆☆☆あとがき
そしてのんちゃんは足腰立たなくなりました、とさ
ってはいすいませーーーーーん!
長い上に分けわかんないですね!ホントスイマセン!
そして服のセンスがないことがようくお分かりいただけたかと思います
べんべんにジーンズのイメージはありませんが、休日にスーツはどうよ、と思って
しっかしこののんちゃんはどう考えても頭イタイですね。はい、すい、ません!