好きだと云うだけで、この想いが伝わるのならば
こんな苦労はしないのに。
Distance Between Us
見上げた空は、天蓋いっぱいに広がった雲が覆っていて、晴れない気持ちを目の当たりにした気分になってしまう。
本当は、もっと笑っていればいいのに、と思う。
笑って軽口を叩いて、迫り来る時を忘れられたらいいのに、と。
熊野は己が生れ落ち、育ち、守るべき土地。
それを、みすみす戦火の渦中に放り込む馬鹿がどこにいるのだ。
だから、せめて八葉である自分だけが同行することにした。
「・・・・・・」
隠居したとは言え、いまだかくしゃくとした――し過ぎだと思うが――親父や部下がいるからしばらくは離れていられる。
それでも、気にならないと言ったら嘘になる。
他の者より睡眠時間を少なくして、熊野やそこを取り巻くあらゆるところの動向を探るのは言うまでもない。
常に気を配って、気を遣い、気にしているのは熊野だけだ。
だけ、だったのに――今は。
「・・・・・・」
ヒノエは熊野別当である。
すなわち、本宮・速玉・那智のいわゆる熊野三山を統べるのは言うまでもなく、水軍の棟梁として活動する。
加えて、数多の王子――熊野権現の御子神を祭っている社から上がってくる雑務や奏上についての判断を下すのはこの己だ。
どんな難題も、どんな無茶な注文にも、冷静に結論を下すのに、今はうまく出来なかった。
そんな己がただただ苛立たしい。
「ヒノエくん!」
「おや、姫君。
そんなに息切って俺を探してくれたのかい?」
戦の最中だ。
陣の外にうかつに出るなと九郎からお達しがあったのに、ヒノエはどこ吹く風と勝手に出歩いていた。
冬の落日は早すぎる。
暗くなれば怨霊より怖いものに出くわすのだ。
それでも、この無鉄砲ともいえる神子は自分を探してくれたのかと思うと、ほころぶ頬を止められるわけもなかった。
昨夜は一段と冷え込んで、空からは冷たいものが降り注いだ。
人肌に触れたら引き止める間もなく解けてなくなってしまう雪は、まるで目の前の神子のようなものだった。
――いっそ、俺の熱で溶けてくれたら
そうしたら良いのか悪いのかわからなくなる。
「探したっていうか・・・・・・うん、探したよ。
ヒノエくん、どこにもいないんだもの」
心配したよ、と笑って見せるので、ヒノエも曖昧に笑った。
何か用でもあるのかと聞いてみれば、特にはないと言う。
「へぇ・・・・・・それは、単に俺に会いたかったっていう意味でとってもいいのかな?」
「ふふ、好きにとってくれていいよ?」
藤色の、長い髪を耳にかけながら望美は茶目っ気たっぷりに返してくる。
微笑むと、常盤色の澄んだ瞳が細められて頬が少しだけ赤くなる。
綺麗な声、白い手、しなやかな四肢に、凛とした清浄さ。
全てが。
欲しくて。
「じゃあ、お言葉に甘えて好きに取らせていただこうかな、姫君?」
言うなり、ヒノエは長い腕を伸ばして望美を捕らえる。
「ひ、ヒノエくん・・・・・・?」
どんなに歯の浮くせりふを並べ立てても、彼は決してこんな風に触れたことはなかった。
初めて感じた熱に、望美はただ戸惑うしかない。
戸惑って、思うより早いヒノエの鼓動を誰よりも近くに感じた。
「姫君?
どうしたんだい?」
軽口を叩いてくるヒノエの声色はいつもと変わらないけれど、双眸が僅かに曇っていたのは、望美には見えない。
「好きにとったんだよ。
お前は、俺にこうされに来た――違うかい?」
燃える緋色は、今だけは錆付いて、抱きしめる力はますます強まっていく。
腕の中で身を固くする望美の体温を逃がしはしないというかのように。
「望美・・・・・・」
俺の熱で溶けるほど、こいつはやわじゃないと知っていた。
だけど、吹き抜ける風の冷たさから守るように、ヒノエは彼女の耳朶に囁いた。
「ヒノエくん?
何か・・・・・・あったの?」
望美は拘束された中で何とか彼の表情を見ようと、顔を上げる。
彼の立場の危うさを知らないわけではない。
無理を押してここまで来てくれたことも。
だから、真っ先に浮かんだのは――熊野に何かあったのでは、ということだ。
普段は悟られないようにしているけれど、ヒノエは、聡すぎるくらいに聡く、己のすべきことをきちんと弁えている人だ。
「・・・・・・」
望美の言葉に、ヒノエは答えない。
――あったんじゃない。
これから、あるんだ。
伝えられる言葉は、なんて少ないのだろうと歯がゆく思う。
このまま、腕に閉じ込めたまま熊野までさらって、どこか誰も来ない場所に閉じ込めてしまいたい。
天女の衣はいっそ焼き捨てて、二度とここからいなくならないように。
けれど。
「ごめん、望美。
今は・・・・・・おとなしくしてて?」
迫り来る戦のとき。
それが終わったら、こいつは天に還る。
役目を終えた神子を、こことは違う時空で望美の帰りを待つ人がいるにも関わらず、引き止められるわけもない。
諦めるのが一番。
けれど。
「ヒノエくん?」
こいつには、こいつの世界がある。
俺のそばにいたら誰よりも幸せにする自信がある。
けれど――
ヒノエは、抱きしめていた腕を唐突にするりと解いた。
急激に離れた熱と、出来てしまった距離に、望美はぱちくりと目をしばたかせた。
「さ、行こうか、姫君?
もっと逢瀬を重ねたいところだけど――これ以上は日が暮れてしまうからね」
慣れた風に片目を瞑ってみせるヒノエに、戸惑いの尾を引いたまま、望美は肩を並べて歩き出す。
控え目に焚き染めた香が香り、それはヒノエの鼻腔を甘くくすぐった。
――お前の世界を諦めろといえるなら
言ってしまえるほど、酷い男になれたらいい。
戦が終われば望美は還る。
手が届かないところに行ってくれたら、いっそ諦めはつくのだろう。
時空を超える力は、神職の己に与えられていないのだから。
*fin*
☆☆☆☆☆あとがき
気弱なヒノエに萌えます。
イメージとしては壇ノ浦決戦前。