お前は知らない、総てを知っている

お前はどこでもない、お前はここにいる




You cannot Escape from me, only you can Fall with me




夏の活気が幾分か落ち着いたころあいになると、木々の緑も勢いが衰え、生きるもの総ては冬の、 身を切るような寒さに対して準備を始めるようになる。

それは人間も例外ではなく、収穫を始めたばかりだというのに保存食をせっせと作り、 雪に閉ざされる季節に対しての構えに余念がなかった。

当たり前のことである。

ここ奥州は冬ともなれば雪が自然の檻を作り出し、深い山々は真っ白な看守になる。

荒れ狂う海は何でも飲み込んで厭わない、という潔いまでの猛威を振るい、人はただ、 自然の前にじっと息を潜めて暖かな春を待つことを余儀なくされた。

しかし、誰もが皆、この地を離れようとはしない。

ここは、藤原氏が緩やかに支配し、白龍の神子の加護を受ける土地。

現総領である泰衡の治世は民草にとってはかなり受け入れられる政だ。

おかげで今年は戦に出征したにも関わらず、どの穀物も何もかもが豊作であった。


「あ、うろこ雲・・・・・・」


秋は始まりを空で知らせる。

望美がふと筆を止め、庭から仰ぎ見れば、深くなった空にちぎったような雲がきちんと整列して並んでいた。

気がつけば、夏の勢いは庭の隅のほうに追いやられ、葉を落とした木々がそこかしこに見てとれる。

あぁ、季節の巡りを感じられないほど没頭していたのかと、一人苦笑する。

だが、自分以上に忙しいのは泰衡のほうだ。

鎌倉との和議が落ち着きを見せた今、浮ついてしまった平泉や近隣の豪族を取りまとめ直さなければならないし、 滞った執務は山のようにある、と彼の側近がそれとなく教えてくれた。

彼はここのところ滅多にこちらに顔を出さない。

望美から柳ノ御所に出向いたこともあったが、その時はあっさりと返され、そのことが意外にも尾を引いた。

もう一度、あんな態度をとられたらどうしようか。

望美のあまりめでたくはない予想が、いつもの軽快さを奪ってしまっていたのだった。


「神子殿、空を見ていても何の足しにもならぬと思うが?」

「泰衡さ・・・・・・!」


階に腰掛けていた望美のつむじから、彼の不機嫌な声が降ってくる。

時は夕暮れに差し掛かるころ。

西の空から不気味な茜が迫り、東には藍色が対抗するように見えていた。

振り返れば、いつもの顔でこちらを見下ろす泰衡の姿があった。


「そんなに驚くことか?」

「気配を消して背後に立たないでください。
 ・・・・・・次は、警告抜きで攻撃しますからね」

「恐ろしいことだな、神子殿は。
 さすが、といっておこうか?」


久しぶりに会えたことが嬉しいやら、驚かされたことが悔しいやらで、 可愛さからはかけ離れた言葉を口走ってしまう。

けれど、相手は憎たらしいくらい表情を変えず、これから津波がやってくるのかと 思ってしまうほど顔をしかめている。

いつもの藤を染め抜いた黒い衣、うなじあたりで無造作に纏めた髪。

あぁ、泰衡さんだと、望美は安堵した。


「それで、はかどっているのか?」

「・・・・・・さっぱりです」

「だろうな。
 貴方は、戦では類まれな感性をお持ちのようだが、歌になるとまるで子供のようだ」


泰衡はふんと鼻から息を抜く。

きいとこちらをにらんでくる望美の視線の中は、自分でも驚くほど心地がいいのだ。

窮屈さを嫌って、単衣をまとってはいるがかなり簡略されている。

藤色の髪と紅梅の袿は新緑の双眸によく映え、まるで春の襲のような色合いを醸し出す。

幼くも見えるがはっとするほどの艶を持ち合わせるこの女から総てを奪い、与えた。


――らしくもない・・・・・・


望美に気付かれないよう、そっと溜息をつくと、やおら近寄り細い腕を取る。

咄嗟のことに身構え抵抗した彼女を視線一つで黙らせると、泰衡はゆるりと笑って言った。


「さて、夕餉までにはまだ時間があるな」




「明日、使いを出す」

「え?」

「だから、今晩のうちに荷物を纏めておけ」

「泰衡さん?」

「長い道のりには、いらぬものは持っていくな」

「待ってください、意味が、よく・・・・・・」


褥の中、腕に抱いた女は大きく体を起こそうとするが、泰衡はその上を行く力で阻んだ。

夕餉を告げる女房を追い払ってからどれだけの時間が過ぎたのか。

それを推し量ることは彼にとっても望美にとっても無意味なことだった。


「貴方は、京に行かれるがいい」


一言、それだけを言えば、どうしてと小さく返ってきた。

それに応えず、泰衡は続けた。


「九郎にはとうに話をつけてある。
 梶原の妹御が世話になっている尼寺で受け入れるそうだ」

「出家しろと、いうのですか」

「違う」

「じゃあ何で!」

「ここから、離れろ」


俺から離れろ、と泰衡は言った。

無理やり腕から抜け出し、髪を振り乱した望美は、平然と横たわったままの泰衡をひたすら見つめる。


「どうして」

「・・・・・・」

「もう、いらないから?」

「言わねば、判らぬか」

「どうして?」


つい先ほど、ほんの呼吸三回くらい前までは、知りえなかった熱をくれた人が別人に見える。


「冗談、でしょう・・・・・・?」

「あいにくだが、俺はふざけというものを知らなくてな」


衣擦れの音が響いて、泰衡も体を起こした。

起き上がった反動で灯明の火が揺れ、二人の顔に落ちる影が不規則なものとなり、そして元に戻った。

痛いくらいの静寂を破ったのは、望美。


「どうして!」

「神子殿」

「どうしてよ!」


泣いて、小さなこぶしを振り上げて、泰衡の胸を打つ。

何度も何度も。

気が触れた者のように、それしか言葉を知らぬ者のように、どうしてと繰り返しながら。

泰衡は何も言わず、胸に受ける衝撃を甘んじて受け入れている。

漆黒の瞳をじっと硬く閉ざし、ただひたすら、神子の叫びを聞いていた。


――こんな時でも・・・・・・


清廉だと、美しいと思ってしまうのは罪だろうか。

藤が乱れ、白い衣が宙を舞い、新緑から溢れる雫は飛び散る。


「堕ちろと・・・・・・!」


震える望美は、震える声でようやく言葉を紡ぐ。

だが、それを聞き入れるはずの目の前の男に届かないことは、痛いくらいにわかった。


「共に堕ちろといったのは嘘ですかっ・・・・・・!」


泰衡は何も言わなかった。




望美の身の回りを世話してくれている女房の、本当の主人は他でもない泰衡である。

だから、その泰衡が命じれば、彼女たちは望美の意思に反して荷造りを淡々と勧めていった。

それを、夕方の激情がどこへ行ってしまったのかと思うほど無感動に望美は見つめていた。

自分の身の回りが綺麗になっていく。

まるで、積み重ねた罪悪がきちんと整頓され、ここで得たものはすべて清算されるような心持になり、 じっとりした笑みを浮かべるより他なかった。

そうして、泰衡から何かをもらったことがないと気付いたのだった。


――どうして


平泉が平定され、鎌倉を押さえ込んだ今、望美はもう要らないと言った。

貴方はこの奥州に戦の火種を持ち込む存在だと。


――ねぇ、どうして


何か欲しいとねだったわけでも、欲しくてたまらないと願ったわけでもない。

ただ、失うことをひどく恐れ、傷つくことにもう耐えられなかっただけだ。


――どうして?


けれど望美は、もう要らない存在になってしまった。




柳ノ御所で、泰衡は眉間に皴寄せて書状を読んでいたが一向に内容が頭に入ってこない。

一休みすればもっとずっと効率よくこなせるであろうに、あえてそれをしなかった――出来なかった。

一瞬でも気を緩めると、夕方の神子の顔がちらつき、二度と離れなくなる。

堕ちろと、確かに言った。

逃がさぬと、その耳朶に吹き込んで、深い深い業の中に確かに飛び込んだ。


――もう十分だ


泰衡は、この地を統べるべく教育を受けいかなる侵略にも屈しないように育てられた。

生まれたときから将来は決まっており、きなくさい時機に育ったこともあって戦況を見極める目は意思とは 関係なく養われていったのだ。

鎌倉が動いたとき、どんな手段をもっても守ると決めそのために払う犠牲ならなんでもすると誓った。


――そこで


清浄なる神の子は酒天童子に姿を変え、この腕に舞い込んできた。

変えたのは他でもない己。

変わるといったのは他でもない神子。

ならば、天に返すのはやはり己の手で行うのが道理であろう。

浄土は相変わらず遥か遠くにあるし、己には縁のない地であるが、神の子は違う。

もしも己が朽ち果てて、地獄の閻魔に出会ったとき、あの神子は己が引きずり込んだのだと釈明してもいい。


――これで


終わりだ、と思った。

何もかも、もう終わった。

もうすぐこの地は雪に閉ざされて何人も受けつけない、内側からも出られない牢獄になる。

神子をここから解き放つならば、今が最適の時期といえた。

堕ちるのも断罪されるのも自分ひとりで十分だ。

地獄の業火も針の山も甘い痛みとなって受け止められるだろう。

だから。


――もう十分だ


気がつけば外はとぷりと暮れ、秋の星が存在感を露にしている。

今日は朔の日かと一人ごちで家人を呼びつけ、灯明の油を継ぎ足させるとすぐに下がらせた。

泰衡の部屋には一切余計なものが置かれていない。

さすがにこの地の支配者だけあって一つ一つは手の込んだものだが、それは見た目の華美さよりも 実用性に重きを置いて使用される。

飾り気のない部屋に、花が飛び込んできたのは一瞬のことだった。


「・・・・・・っ!」

「・・・・・・」


飛び込んできた花は、一年近く前、あの大社で対峙したときのように錆びた炎を双眸に宿し、 他の誰でもない、泰衡を見つめていた。


「・・・・・・慌しいおいでだな」

「・・・・・・」


いつもなら皮肉にくってかかる言葉が出てこない。

無理やり唇を歪めた泰衡のそれに、望美のそれが重なった。


「――置いて、いかないで」

「神子殿」

「あたしは、貴方と堕ちると何度も言った。
 なのに、ねぇ、その貴方があたしを置いていくの?」


違う、と泰衡は言葉もなく呟く。

置いていかれるのは、己のほうだ。


「置いて、行かないで」

「しかし、貴方には――光が、よくお似合いだ」

「いらないわ」


望美は再び、甘く泰衡の唇を塞いだ。

互いの頬が触れ合って、初めて泰衡は彼女が泣いていることに気がついた。


「浄土さえも、貴方がいなければ地獄なの」


おいていかないで


望美の一言に、泰衡はなす術をなくした。

どれだけの罪を犯そうと、あらゆる業に身を任せようと、神子はどこまでも神子だった。

共に堕ちると約しても、きっと堕ちるのは己一人だと思った。

ならば、こちらから手放そうと、半身を失う思いで決断したのに――


――あぁ、


きっと、神の子は自分だけ召されても、何もかもを振り切って己を追ってくるのだろう。

逃れられないと言ったのは確かに自分だったはずなのに。


「・・・・・・お覚悟を、決めたらしいな」


本当に逃げられないのはこちらのほう。


「いいのか」

「貴方が嫌だと言っても」


抱きとめた体は暖かく、柔らかい。

藤の髪に顔を埋めた泰衡から、一滴の涙が零れ落ちた。


――ならば、この女を抱いたまま、どこまでも堕ちるのみ




*fin*











☆☆☆☆☆☆あとがき
若干弱めのやすんでした。はい。そうですね、弱めですね。
回数を重ねるごとにダークさがなくなっていくのはきっと気のせいです。でもシリアス(にこ!
きっと望美は大社ですべての覚悟を決めていたのだと思います。そして、引き込んだ形になってしまった泰衡には幾分かの後悔があってほしい。
ということが今回の主題でした。でも不完全燃焼。精進します!