緩やかな時間は
極上の肌触りと調べを以って
世界を包む


錦上添花


誰もいないリビングは広々として、照明が煌々と光を注ぐ先には二人分のティーカップが所在無さ 気にウッド調のローテーブルに置かれていた。

群青と蘇芳の中間とも言える色合いに内側の白が良く映えるそれは、先ほどまで手にしていた人物 のぬくもりを名残惜しむ己がごとく、底のほうに少しだけ紅茶が残っている。楽しい一時を過ごし た反動で、しばらく、銀はカップを片付けようともせず、ソファにもたれたままぼうと視線を注い でいた。

バランスの取れた長い腕を折って頬杖を付き、何をするでなく、帰ってしまった人の名を思い浮か べれば、連鎖反応を起こす脳裏はあの人の面影をそれはそれは鮮やかに映し出す。手に感じていた 熱や、鼻腔に感じていた香や、瞼を閉じても一向に色褪せることない笑顔や、そのほか全てが一体 となって思い出せる。

ほんの少し前、家まで送るといった自分をやんわりと断ったあの人は、今、どんな帰路に着いてい るのだろうか。

僅かながらでも、この自分を恋しく想ってくれているならいい。

ふとした拍子に、この自分を描いていてくれればいい。


――私は


私は、貴方のいない空間におります。

少しも離れたくない、などと口に出したらきっと、虚を突かれたような顔をして一瞬の後柔らかく 笑ってくれるだろう、そして嬉しいと口にしてくれるだろう。けれど、どこかで困らせてしまうか も知れない。だから、言わない。本当は、もっともっと独占していきたいけれども。

離れてなお募る想いに、なんと名をつけたものか判らない。愛おしいとも、恋しいとも、慕ってい るのとも異なる。幾分かの寂しさを混ぜ合わせて、それから逸る気持ちと、会えると判っている時 間までを指折り数える焦れてしまうような感覚と。それは透明な色を違えた心が幾層も降り積もっ ていくような心持に近いのかもしれない。

薄い唇に抑えた笑みを滲ませて、銀は頬から手を外した。姿勢を正すと白いシャツが小さな隙間を 作って綺麗なカーブを作る鎖骨が見えた。週末ともなれば堅苦しい格好なんかごめんである。さら りと一枚羽織っただけの格好は春めいてきた季節でも肌寒く感じるのだが、いかんせん今までいた ところの寒さを考えるとものの数にも入らない。

平泉は、もっと極寒で、気がつくと春だった。

寒い寒い、今日も雪が降ってきたああ積もったとばかり思っていたら急に春になっているのである。 雪深い地の常で、季節は、曖昧としてやって来て過ぎ去るのではなく突如として気付かせるのであ る。今は春である、夏である、秋である、冬である、と。

人々がそうですかでは春なのですねと頷き返している間に、季節は移り変わってしまい、ひたすら 追いかけてゆくことしか出来ない。背後にそびえている山々はそんな彼らを悠然と受け止めて色彩 を変化させてゆき、広がる大地は風の通り道を目に教えてくれる。揺れる穂の、伸びゆく青さを目 にしていると次第にたわわに実った頭を重たげに下に向け、刈る農夫の遠くまで響く声が間延びし て聞こえる。


――懐かしい・・・・・・


郷愁が胸を抜けるとき、浮かんでくるのは不思議なことに平泉のほうだった。生まれ育ち学んだ年 数は確実に京のほうが長いくせに、郷を浮かべるとき、そちらは後から出てくる。母もいた、兄も いた。けれど、故郷を懐かしむならば平泉のほうだ。みなどうしているだろうかと馳せこそすれ、 帰りたいと思わないのもまた事実だった。

虚ろなる器と化していた自分の中に注ぎ込まれたものの温かさに目を覚ましたのはそう遠い過去の ことではない。そこから、勢いまして蘇ってくる過ちのことに呼吸を荒くして耐え忍んだことも昔 と言うには近すぎる。だが、乗り越えた先にあったものは、替え難く唯一と言い切っていいほどの 宝。

ふうと一息ついてから銀は立ち上がった。

ティーカップを片付けて、ちゃんとした手入れをしておかないと陶器の表面に茶渋がついてしまう 。一度沈着すると取るのに難儀するのである。あまり粗雑に扱ってしまっては表面に施された金の 色合いを損ねてしまうし、力を入れて洗ったら取っ手の部分をうっかり割ってしまいそうである。

もっと頑丈でざっくばらんに扱っても差し支えない品はこの世界に溢れているのだが、二人で立ち 寄った店に飾ってあるのを見て、あの人が綺麗ねと言ったのをきっかけに買い求めたのだった。綺 麗ね、この色合い、銀の瞳の色に良く似ているわ。

何につけても良く笑ってよく泣いて、感情を豊かに表現する人だと思った。大きな新緑の瞳がくる くる動いて、桜色の淡い唇がほころんで、白い大輪の花がほころぶように笑っている姿を見ると、 無性に、そうなんの前触れもなく腕の中に閉じ込めたくなってしまう。ぎゅうと抱いて、どうか時 よ止まれと願ってしまうような。


――貴方は笑うでしょうか


どんな些細なことでも見逃したくないと思っているなど。

長い藤色の、真っ直ぐな髪がさらと流れていって、白い首とそこから見える鎖骨の華奢な作りを見 るとき、ああなんと美しいのだろうかとそう思う。伏せた長い睫の影が滑らかな頬に落ちて、形の いい唇が言葉を紡ぐのをじいと見入っていると、決まってどうしたのと言ってくる。見ているだけ ですと返せば、恥ずかしいと白い面を鴇色に変化させながらそっぽ向いてしまう。

幼い仕草も、はっとするほど大人びた瞳の光も、まだ、自分は彼女の何も知らないのだと聞かされ ているようで、歯がゆい反面、傍でそれを見つめることを許された優越感がえも言われず、心をく るむ。

どんなに想っていても、その想いのどれだけが伝わっているのだろう。

どれだけ想っているのか、どうしたら伝わるのだろう。


――愛していますと

一言。たった一言だけで伝えられるのか。

初めて会ったとき、あの人は命からがら平泉を目指して逃げている最中であった。鎌倉と言うどう しようもないほど強力で強大な勢力を敵に回しながらも、顔に落ちる影に絶望を滲ませてはいなか った。ここで終わるかという意地があるでなく、突然現れた自分を何のてらいもなく信頼していた。 そこに不思議さを感じこそすれ、疑う気は毛頭起きなかった。

後から考えるといとも簡単な話で、あの人は、わかっていたのだという。敵でなく、信頼していい 人だったということを。その芯の強さに憧れ、屈託ない人柄を慕い、気がつけば、いつしかこの感 情は恋慕を遙かに超えていた。辛い戦いもあったけれど、乗り越えたとき、元の世界に戻ると言っ たあの人の傍にいることに何の躊躇いも無かった。

時空を越える、ということがどういうことかろくにわかってもいなかったのに、離れることより苦 痛なものはなかった。


――愛しているのです


この感情を教えてくれた、貴方を。

使い古されたこの言葉を、いくつ重ねたらいいのでしょう。

一度時計を見た銀は両手にカップを持ってキッチンへと歩いていった。シンクに水を溜めて静かに 落としこんで、スポンジの柔らかいほうで丁寧にこすってゆく。先にティーポットのほうにお湯を 入れて汚れを浮かしておくのも忘れない。

明日はどうしようかと考えながらそんな作業をしているとインターフォンの音が響いた。何の音楽 もかけていなかった部屋一杯に響いて、誰が来たのだろうと手を止め、玄関まで足を動かしていく 。夜に尋ねてくる人の顔ぶれはそう多くも無い。


「――っ!」


ドアを開けると夜独特の、冷やされた空気がまず一番に流れ込んできて、遮られていた車の音やサ イレンが耳に届く。そして、夜景を人型に切り取ったようにそこに立っていたのは。


「神子様・・・・・・?」


驚いた銀は小さく呟き、対する望美は伏せたままぎゅうと手にもったバッグを握り締めていて、そ れでも頬が紅潮しているのはよくわかった。何か忘れ物でもと尋ねればふるふると頭を横に振り、 押し黙った唇は、閉ざされた貝殻のように自ら開くのを待つしかない。


「あ・・・・・・・のね、銀」
「何でしょうか」
「帰ったんだけど、駅まで歩いていったんだけどね」
「はい」
「そ、の・・・・・・」


一瞬逡巡するように望美の瞳は左右に動き、どう言葉を捜したものかと答えを求めて玄関タイルを 注視するもさっと面を上げ、じいと銀の双眸を見つめていった。


「もう少し、一緒に居たいの」
「神子様・・・・・・」
「だめ、かな」


不安に揺れる瞳は幾分か緩んでいて、返答を待つ喉が一度こくりと小さく動いた。細い首にかかっ ている藤色の髪が風に揺られて、予期していなかった言葉に、やっと銀は我に帰る。


「――神子様」
「だめ、だよね。明日だってきっと予定あるもんね。ごめん、突然」
「いいえ、貴方がそう願うのならば、私は嬉しいことこの上ありません」
「・・・・・・銀?」


ぐいと強く腕を引いてあっと言う間に内側に体を引き寄せ、ドアを閉じる。望美が引かれた先とい えばそれは銀の腕の中で、今まで当たっていた夜風との温度差にはっとなる。そうして耳に届く柔 らかく低い声音は安心させてくれる一つだ。


「貴方と共に居たいと願うのは、私のほうが強いでしょうね」


そういいながら、近づけられる唇に瞳を閉じて、降り注がれる口付けの優しい熱に溺れていくのを 感じるとき、確かにわかるのだ。


愛しているのだと。












わたし、何がしたかったんだろう…
一こまを切り取って綿密に書いてみようとして撃沈。サンキュー!(?