どのくらいそうしていたのか、先に動いたのは泰衡のほうだった。
無言で望美を抱き起こし、自分の手で剥がした衣をすっかり冷え切った肩にかける。
あやすように薄い背中を何度も撫でて、腕の中にすっぽり納まる細い体と体温に安堵のため息が自然とこぼれる。
藤色が覆う小さな頭がもたげられ、涙が溢れ続ける双眸は責めるでなく罵るでなく、真正面から自分を見つめてきた。
瞳に映る自分の顔が歪んで見える。
「・・・・・・」
「・・・・・・どうして」
「・・・・・・」
「どうして泰衡さん、そんなに怯えた顔してるの?」
確かに黒き刻の女神だった女は、町娘の無防備さをまとい天女もかくやという純潔さを保って聞いてくる。
怯えるのはそっち方だろうと低く掠れた声が望美に届く。
――どうして分からなかったんだろう・・・・・・
この人は、いつだって怯えている小さな子供なのに。
震えながらうずくまって、ほんの少しの隙間から外を睨みつけている小さな子供。
漆黒の瞳は平泉の未来を映し出して、固い意思が体の形を取ってこの人を突き動かしている。
背負う命の重さと奪った命の重さで今にも潰れてしまいそうな不安定さは、彼が無意識にゆがめた頬に滲んでいた。
だから。
「怯えないで・・・・・・」
ひんやりとしたその頬に手を添えた。
「大丈夫よ・・・・・・大丈夫・・・・・・」
先ほどまで拘束されていた両手で、自分の体温を分け与えるように頬を包み込む。
囁きは、泰衡の唇を掠める。
「神子、ど、の・・・・・・?」
「怖くないわ」
貴方を嫌いだなんて、憎いだなんて思っていない。
泰衡が見つめる望美の唇は紅を刷いた押し付けがましさはなく、うっすらと鴇色に染まっていた。
それが、ゆっくりと笑みの形へと変わってゆく。
「あたしが怖いのは、貴方の心が分からないから――触れられるのが嫌なわけじゃない」
泰衡の体のどこかが震える。
望美の言葉は決して特別な力を持っているわけではないのに、どうしてだか心が震える。
口の中で唾液がじわりと広がった。
「お願い――怖がらないで」
ここにいる、と望美が言った。
頬に添えていた手が音もなく滑り、小さな衝撃を伴って泰衡に体を預けて――いや、泰衡を抱きしめていた。
ここにいる、と望美が繰り返す。
「どこにも行かないわ。貴方のそばで、ずっと――」
泰衡は思う。
自分が守るべきはこの奥州であって、腕に抱くのは聳え立つ山々、瞳に映すのは広がる肥沃な大地。
いつか朽ち果てるとき、まだ顔も見たことの無い子孫に受け継ぐべき土地。
決して誰か一人に固執したのではやっていけない重みと痛みが、今もこの背中にかかっている。
その背中を抱いてくれる存在が、この世にあるのか――あるのだ。
一度は汚そうとした、神の子が。
「貴方は、やはり神子なのだな」
声が震える。
かみ締めた奥歯から小さな想いが漏れていって、抱きしめた体の儚さを改めて認識した。
「神子、なのだな・・・・・・」
固く閉じた泰衡の双眸から後から後から涙が溢れ、切なく寄せられた眉間のしわが一層深くなった。
どんな穢れも触れればたちどころに払い清める白龍の神子。
仲間から引き剥がしただけでなく彼女を慕っていた、自分の部下だった男の命を目の前で奪い
あまつさえ奈落の業の中に突き落とした。
その神子が、この世でたった一人、背中を抱きしめる存在だったとは。
望美の体を絡め取る長い腕に、力がこもった。
許しを請うように、望美が月へと還らないように。
「泰衡、さん・・・・・・?」
望美は泰衡の頬へと再び手を伸ばし、細い指で涙の後をたどった。
普段から感情を表に出さない――出すことに慣れていない彼は、うまく泣けないのかそれとも笑いたいのか、
実に奇妙な顔をしていた。
そんなところも愛おしいと思う。
本当に不器用で、言葉が足りなくて、仕方のない人――けれど、この人を守るために。
この人のためなら地獄の業火も涼しく感じられる。
「・・・・・・っ!」
望美の指が辿ったことで、泰衡はようやく自身が涙を流していることに気付いた。
前をはだけたままの泰衡の鎖骨に、一粒の涙が落ちる。
何かを言いたくて開いた口は中途半端なまま固まり、ただじっとこちらを見つめている。
急いで口元を手元で覆い、望美から隠れるように顔ごと視線を逃すけれど、彼女の薄い手のひらがそれを許さない。
「・・・・・・」
「きれいななみだ・・・・・・」
望美は吸い寄せられるように漆黒の瞳を守る瞼へと唇を落とす。
伏せられた長い睫が震え、濡れぼそったそれは何もかもを映し出して飲み込んでしまう漆黒を縁取り、
望美の唇に僅かな塩味をもたらした。
「あなたを、分けてください・・・・・・」
なんてことのない言葉。
総ての単語を泰衡は知っている。
けれど、望美から発せられたその言葉たちは泰衡を甘く束縛し、心までも絡め取って涙腺を破壊した。
「・・・・・・っ」
溢れるのは涙だろうか、神の子への恋慕だろうか。
この想いは慈悲を乞うのか、懺悔を表すのか、もう分からない。
ただ、流れる涙を止めようとは思わず、隠そうともせず、泰衡は泣いた。
望美は彼の涙を胸で受け止め、ひたすらにこの人の幸いを願う。
「あたしは、貴方とならば、どこまでも、どんなことでも」
掠れた声は魂が発した言葉――誓い。
それに応えたのは泰衡の腕の力。
唇を寄せ合ったのはごく自然なことで、そしてそれは総ての合図となった。
望美が目覚めたとき、すぐそばに泰衡の顔があった。
とうに起きていた彼はほんの僅かな間だけ瞳を緩め、すぐにいつものしかめっ面に戻る。
「寝すぎた」と一言いったのは、自分に向けた言葉か果たして望美に向けたものか。
外は驚くほどの快晴で、深い冬の、ほんの僅かな小休止の一日が始まっていた。
*FIN*
☆☆☆☆☆☆あとがき
えー、どっから謝りましょうか。空前絶後のやすんの涙ブームです。
やすんのSSとしては異例の甘さを持つ作品となりました。(ぇ)
BGMはもちろんやすんのシングル。エンドレスリピートしてました。
素晴らしい背景を作ってもらったのに活かしきれなかったことに不完全燃焼さを感じます。
やすんの「黒き刻の女神」とはインド神話の「カーリー」のことをさしています。
ダキニに対抗するような悪神を探していたらヒットしたので採用しました。日本名は不明です。
戦場を好み、死者の生き血を啜っては狂乱に踊り狂うという女神様。「時間」と「黒い」という意味の名前だそうです。
Special Thanks to 葉月様「色環」