彼方からの雪解けの川よ

月に照らされた夜を偲んで



Rainy Night in the Heavy Dark


平泉の夏は遅い。

晩春を惜しむ花の香りは春時雨に妨げられて、ここまで届かない。

望美は西の対から寝殿に繋がる渡殿でぼんやりと座り込んでいた。

吐く息は十分に白い。

それでもあたり一面に積もっていた雪の姿はとうになく、代わりに芽吹いた木々や草の若い緑が目に付くようになった。

時間は確実に流れている。

それは間違いのないことで、現実で、しかし無常なものだった。

無意識に夜着の上に羽織った衣を握り締めていたらしい。

震えたのは寒さゆえではない。

じっとりとした苦笑は、地面を打つ雨の中に消えていった。


「こんなところにおいでか、神子殿?」

「泰衡、さん」

「このような夜半に何をしておられる」


質問という口調ではなかった。

声のする暗がりへと視線を移せば、灯明を左手に持った藤原泰衡の姿があった。

いつも羽織っている黒い外套を夜着の上にかけただけの、彼らしくも無い軽装である。

どんなに夜が深い時間でも、緊急の呼び出しにはきちんと身なりを整えているはずなのに。

暗闇に慣れていた眼は微かな光源にも過剰に反応し、思わず望美は両目をしかめる。


「そのようなお顔をなさるとは、余程疚しいことをなさろうとしていたようだな」

「ちが、違います。
 ただ、ちょっと眩しいだけです」

「眩しい?
 たかがこんな光でか?」


口調はどんどんと厳しさを増していく。

もはや詰問といっていいだろう。

何も後ろ暗いところがないのに、答えるうちに悪いことをした心持になってきた。


「それで、何をしておられた」


泰衡はひざを抱えた望美に近づきながら、最初の質問を口にする。

あたりに満ちるのはただ冷たい雨の音。

互いの息遣いでさえ掻き消され、意識しなければ命のありかがわからない。

互いに腕を伸ばさなければ届かないという距離で立ち止まった。

それきり、泰衡は足を進めようとしない。


「・・・・・・雨の音が、耳について」

「ほう?
 それで起きだした、というわけか」

「そうです。
 別に、逃げ出そうとしてたわけじゃないですから」


今更、と繋げた声は届いたのだろうか。

泰衡に注いでいた視線を再び眼前の雨模様に戻す。

吐いた溜息が灯明に照らされて滲んで消えていった。

ぼんやりと眺めていた月が朧となり、雲の厚さが光を閉ざしてしまう。

光を失った空間は広く、底が無く、自分の体重を受け止める床だけが頼りだった。


「神子殿はお元気で何よりだな。
 昼間、あれだけ動いていたというのに、まだ起きている気力がおありとは」


皮肉な泰衡の言葉に、望美はしばしの間眉を顰めた。


「動かしたのは、どこのどなたでしょう?」

「さぁ、知らんな」


ふんと軽く鼻を鳴らして、望美の精一杯の皮肉返しを流す。

また、黙り込んで視線を見えない庭に定めた彼女の腕を掴んだ。

まるで、逃がさないとでも言うように。


「乱れた神子殿もいいが、このように冷え切った躯では萎えるな」

「ちょ、痛い!」

「何を考えておられる、神子殿?」


彼女が見ていた方角には、間違いなく大社があるはずだった。

そこで、深い業の中へと自ら踏み入れた尊き存在。

自分の手で、と言い切った瞬間、その常盤色の瞳に映った錆びた炎。

細い双肩に背負うものは重く、二度と下ろすことはかなわない。


「よもや、泣いてなどおるまい?」

「泣きません、あたしは」


きっぱりと言葉を確認するように言い放つ。

頼りない光と、掴んだ彼女の冷たい熱が泰衡の心をずらして仕方ない。

なぜ、と望美は掴まれた力の強さを思いながら問う。

こんなに暗い中が自分には似合うのに、なぜ見つけ出すの。

どうしてわざわざ光を持ってくるの。


――離れてくれていて、よかったのに


どこでどう狂ってしまったのだろう。

誰も失いたくない、守りたいと願っただけなのに。


「・・・・・・己が愚かさを呪っていたのか?」

「そうかもしれませんね。
 あたしは、短絡的で感情的で、気持ちのまま行動しますから」

「なるほど、確かにそうだな。
 夜に部屋を訪ねて来たかと思えば、もう抜け出している。
 どこぞの姫もなした例がない」


揺らぐ光の中で、泰衡はゆるく笑う。

自分に向けられた笑みに、望美はきりと睨みつけた。


「厭でしたか?」

「とんでもない」


ならば、と続けようとした望美の口を、重くのしかかるような口付けで塞いだのは、泰衡。

動作の反動に立ち上がった風で灯明の明かりが消える。

再び、底なしの闇が訪れた。


「・・・・・・っ!」

「感情的になるのも悪くないが、少しは己の体を省みろ」


物を食していない、さほど眠っていないということは一向に改善されていなかった。

それを隠そうと、望美はいろいろと画策していたが、泰衡が騙されるわけも無い。

柳ノ御所で倒れたときの、あの血の気が引くような思いはもうごめんだった。

気づかれていることを、望美は遅まきながらに自覚し、無理やり離れようとした。

しかし、泰衡の綺麗な腕がさらに彼女を絡めとる。


「あなたは、自分で選んだはずだ」


耳元で鳴るのは己の鼓動か、雨音か。

掴んだものは天女か酒天童子か。


「わかって、います」

「ならば――」


命令のような言葉に答えたのは、望美の決して優しくは無い唇。

互いに熱を分け合いながら、闇の中で抱き合った。



――己と堕ちるがいい



空は、異界の天女に代わってひたすら雨をもたらすだけ。

歓喜も懺悔もいらない。















☆☆☆☆☆☆☆あとがき
えー、鬼畜なやすーんと強気な神子様。この二人なら全国制覇できるはず!
くろーさんのお兄さんができなかったことをひょいっとやってくれそうですね(え
しかしやすーんは最高のつんでれだと思います。
そんなところがますます愛おしい。で、あえて背景を藤にして見ました