陽が堕ち天は溶ける

彼岸との境は曖昧になり浄土は遥か彼方




Cell Block Tango




――If you have been there If you have seen it


夕暮れの燃える紅の中、馬足を進めると、一日のどの時間よりも濃くて強い影を従えること になる。

燭をともしても闇は部屋の隅に逃げるだけで、溜息すら許さない存在感を以って居座ってしまう。

今日の終わり、安息を求めた人が溜まった疲れを肩の辺り、腰の辺りに薄い靄のように漂わせて 家路を急ぐ中、泰衡はふと空を見上げた。

東から迫る群青と西に追いやられた緋色の世界は彼の総てだ。

奥深くそびえる雄大な山々。

倦むことを知らない大河。

流れが運んだ恵みを余すことなく受け止めた広がる平野。

この肥沃で豊かな土地は歴史上、不可侵と半独立を保ち、政の中心地から離れていたことも あってある面では戦のきな臭さから遠く、それだけ戦になれていないということを意味していた。

そう、「していた」のだ。

源九郎義経が兄の頼朝に裏切られ、命からがら逃げ出した時点でこの地を頼るだろうということ も、それが火種となって奥州を鎌倉が攻め込むであろうということも読みきれていた。

正しくは、謀反人をかくまった罪という口実でこの地を支配し、この国をあまねく鎌倉の元に 置きたいということ、これが本音だということは生まれたばかりの赤子にだって分かることだ。


――やるなら、この手で


新緑を凝縮して填め込んだような、唐より伝わる硝子の瞳に錆びた炎を宿して、神の子は大社 に舞い降りてきた。

これは僥倖と不敵に笑っては不謹慎だとなじる声だって気にならない。

罵声を浴びせたいならば好きなだけなすがいい。

罵詈雑言を声の限り発して人格を打ち壊したならばすればいい。


――己の立場に立ってみろ、同じ言葉を己にぶつけられるか?


平泉が手に入れたのは神の加護ではなく茨木童子と化した舞姫。

もとより、正当な手段で手に入れたわけではない。

姿を変えてしまうのは道理であり、それが閻魔の使いでも構わないと泰衡は思った。


――追儺の覚悟はとうに出来ているさ




――If you have been there If you have heard it


あの場で、あの光景を見て、あの匂いを感じて、あの殺気が肌を包んだ時点で 躊躇うほうがおかしいと思った。

火を放たれた屋敷からこの身だけでも救い出したいという神の願いで手に入れた逆鱗を、 万象に作用する逆鱗をあんな風に使うことの罪深さを知らなかったわけじゃない。

けれど、今まさに西の海に陽が沈まんとするように昏いぬかるみに自ら足を踏み入れるがごとく、 その行動は望美にとって本当に自然なことだった。


――別に言い聞かせているわけじゃない


それは、黒龍の逆鱗を己が一族の復興ためだけに使役した平清盛と同じ。

望美は仲間を、行くあてのなかった自分たちを温かく受け入れてくれた子の地を守るため、 突き詰めれば自分の感情の赴くままにその陽の気を鎌倉兵に向かって、 一厘の罪悪も感じずに放った。

神の力を己の欲するままに使った清盛の末路は知れている。

白龍が文字通り命を懸けて助けてくれたこの体は、いつしかこの世に存在していたことが 夢だったかのように、塵芥と化して消えてしまうのだろうか。

それとも、なした業に永遠に囚われて死ぬことすら赦されないのだろうか。

じっとりとした苦笑を望美は夕焼けの中でようやく浮かべた。

夕焼けは本当に空を焼く。

この緋色は太陽が燃える色ではなくて、空が炎上し溶け崩れる色だとふと思った。

紅の閃光は茜を残しているくせにやけに強い影を地上にもたらし、気がつくと影は地面から何も かもを包み込むように辺りを黒く塗りつぶしてしまう。


――どんなに・・・・・・


どんな罵声も拷問も受けて立つ。

藤色の髪を鷲掴みにされてどこまで引きずられても、自分のなしたことを謝罪し地に額をつ けることだけはしたくない。

きっと、あの日なした罪の深さに打ちのめされる時が来る。

底なしの奈落に突き落とされて、闇の中を四つんばいで這い回る時が。

その日をおびえて生きる今この瞬間が、罪人に対する刑罰なのだろう。


――石で追い払われる覚悟なら出来てるわ




――I beckcha you would have done the same.


泰衡が半分闇に溶け込むようにして伽羅御所に着いたとき、とある対の廂でぼんやりと空を 見上げている望美が見えた。

初めて会ったときから幾分かやせたようにも思えるその横顔は、どこへ視線を定めるというわけ ではなく、だた、これから出る月を待っているかのようだった。

とうに暗くなったのに傍らに明かりを置くわけでなく、人を寄せるわけでなく、 本当にただ座って空を見ているだけだ。

八葉なる存在とともにいたころ、よく好んで着ていた薄紅の羽織はもうどれくらい見ていない のだろうか。

彼女は、女房たちが用意する着物を諾として身にまとうが薄紅の衣だけは拒んでいた。


「今、お帰りですか」


視線を空に向けたまま、望美はぽつりと声を零して言った。

対にいたる渡殿に足を踏み入れた瞬間、まるで自分の縄張りに入り込んできた侵入者に 告げるような口ぶりでもあった。

これ以上近寄ってくれるな、と。


「月が恋しいか」


泰衡は言葉を返しながらも足を止めようとはしない。

望美の質問に答えていない彼は、衣擦れの音を耳の直近で感じながら言う。


「還りたいと望むか、神子殿」


望美もまた、泰衡の言葉に答えようとはしなかった。

それきり、二人は口を開こうとはせず沈黙だけが暗闇と一緒に辺りを包んでゆく。

薄い暗闇の中でも分かるほど白く滑らかな頬に、空の色を映し出す大きな瞳。

細い手はどこから剣を振るう力が出るのかと疑ってしまうくらい、華奢だ。


「還るって、どこに還ればいいのでしょうね」


緩慢な仕草で望美は泰衡を見た。

頭の動きに忠実に従った長い藤色の髪がさらりと流れる。


「貴方の望むところに」

「私の望むところ?」


黒の衣を好んで身に着ける泰衡は、望美の目に本当に闇に溶けているように見えた。

つややかな黒髪は項の辺りで無造作にまとめ、鋭い眼光を放つその双眸はきりと引き絞られた 眉の下。

皮肉に歪んだ薄い唇は、次に何の言葉を紡ぐのだろうか。


「何も望まぬとおっしゃるか」

「・・・・・・何かを願うのはもうたくさんです」


願えば、願いをかなえるため、叶った代償を贖うため、自分の身を切り裂く。

それに、皆が穏やかな日々を手に入れたことを思えば――満足してもいい。

だが、もうこれ以上のことを望んで何かを代わりに切り捨てることは出来そうにもなかった。

満ち足りた生活、安穏と過ごす時間、安息に包まれる日々、それらはこの平泉が叶えてくれた。

だから、これ以上何を望めというのか。


「ただ」


泰衡に合わせた視線を、望美は寸分たりともずらさずに続ける。


「ただ、またどこかの誰かがここを攻めてきたら――」


望美の言葉を最後まで聞いてもいないくせに、泰衡は笑った。

不敵で、不遜で、仏でさえ嘲笑うかのような笑みは神の子にどう映ったのだろう。


「容赦なく焼き払う、か?」

「ええ、もちろん」


それに応えた望美の笑顔もまた、どこか血腥さをたたえそしてぞっとするほど綺麗だった。


「此処が、あたしの居場所ですから」


きっぱりと言い切った望美を、泰衡はなおも笑顔で見つめていた。

酒天童子が喜びに溢れて思わず笑ってしまった笑顔だった。


「白龍の神子とは思えない言い草だな」

「――守るだけ、ですから」


茨木童子は生涯の伴侶に向かって言う。


「貴方も、私も」


――How could you tell me that I was wrong?



*FIN*












藤原泰衡による文中英文訳(上から)
―もしも貴様がそこにいて、それを見たとしたら
―もしも貴様がそこにいて、それを聞いたとしたら
―賭けてもいい、貴様は己と同じことをしただろうさ
―なのにお前らは己を責めることができるのか?

映画「CHICAGO」のとあるシーンから抜粋。