そのセリフ、

ちゃんと聞けるのは何年後だろうな?




二人きりの夜に




望美が遊んで帰ってくると、ダイニングテーブルの上に紙切れが一枚乗っかっていた。高校生の娘 がいるというのに、両親は新婚当初と変わらぬくらい仲がいい。仲がいいのはとてもよいことだと 思う。『仲良きことは美しきこと哉』なんて格言だって残っている。だが、だからと言って


「有川さん家と温泉行って来るね。お土産待ってて」


はないと思うのだ。ご丁寧にも宿泊先の電話番号を書いておくのは配慮の末だろうが、母の気楽さ は尊敬を通り越して呆れも出来ない。今日は土曜日なので旅行の予定を立てても何の支障はないが 、この唐突さはいただけない。


――なんか、一言くらいあってもいいんじゃないの?


当然の感想であるが、もう旅立ってしまった両親に届くわけもなく、メモをさらに読むとこうあっ た。


「望美は有川さんとこに行ってね。冷蔵庫におかず作っておいたから、二人と食べるように」


用意周到だが、年頃の娘に年頃の男がいる家に泊まれと言うのはどうなのだろう。ふと首を傾げて しまうけれど、そこは長年の付き合いがもたらす信頼とでも言おうか。最近は物騒ねぇと母親たち が話していた気がしないでもない。きっと、夜一人で娘を家に残すのが忍びなかったのだろう―― 要は、折衷案なのだ。オトナだけで旅行したいが、子供たちが心配。ならば、一箇所に纏めておけ ば楽に連絡が取れる。

将臣と譲。どちらも兄弟のように育ち、三人はどちらの親からも育てられたようなものだ。ゆえに 、二組の親はちゃあんと三人の嗜好を把握している。冷蔵庫を覗いてみると、望美が好きなおかず と将臣と譲が好きなおかずがそれぞれ作ってあった。とはいえ、何も告げられずに置いていかれた 身としては、こんなものでは足りないという心持になってしまう。

お土産を忘れたら口を利いてやらないとか云々考えつつも、携帯電話を手に取る。こちらがこうい うことになっているということは、将臣のほうも知らないのではないか。知らせてやろうと思った のだ。耳に当てた機械からベルの音がする。


「――あ、将臣君?」
「おお望美。なんだよ?」


電話が繋いだラインの向こうは、かなり雑音が入り込んでいる。それは一定の間隔をもって遠のき 近付き、誰かが傍にいるような気配まで伝えてくれた。


「あのね、お母さん達、旅行いってるみたいなの」
「はぁ?俺んとこもだぜ?」
「あ、知ってるの?」
「おー、なんかお袋が『今日望美ちゃんのことよろしくねー』って言って笑顔で出て行ったぜ」


よろしくって、どういう意味だろうなと将臣は口調に苦笑いを交えていった。一定間隔の雑音は相 変わらずで、よく聞き取ろうとしないと将臣の声が負けてしまう。望美は、藤色の髪を耳にちゃん とかけてから電話を当てなおした。


「今日、そっちに泊まりなさい、ってさ」
「・・・・・・え・・・・・・な・・・・・・よく聞こ・・・・・・」
「今日、そっちに泊まるから!」
「・・・・・・はぁ?」


勢い良く言ってみたものの、言ってしまってから急に恥じらいとか羞恥とかがこみ上げてきた。誰 もいないリビングの真ん中で、望美は白い手を赤くなった頬に手を当てる。新緑の瞳が、うろうろ と視線を定める先を失って揺らいでいた。


「マジで?」
「マジです」


ぐっと腹に力をこめて言い、ついでに将臣がどこにいるのか、何時ぐらいに帰ってくるのか聞いた 。どんなに仲がよくても、さすがに彼の家の鍵までは持っていない。それに、譲もどこかへ行って いて、夕暮れが空を茜で包み込んでいる今、隣の家に明かりが点く気配はなかった。


「ふうん・・・・・・まぁ、いいか」
「何が?」
「今日さ、譲も帰ってこないぜ。あいつ、合宿」
「――それって」
「お前と俺、二人っきり、だな?」


こちらの動揺を見透かしたように、ラインの向こうにいる彼はあっけらかんと笑って電話を切った 。

何を今更と思う反面、どうしよう、と心臓は勝手に脈拍を上げてゆく。両親達は未だに二人を仲の いい幼馴染か兄弟くらいにしか思っていないのだろうが、その実は違った。二人は、もっと深いと ころにある絆を持っているのだ。ただ、それが今までどおりに表面化しているので気付いていない 、と言うことだったのだ。

こういうとき、親よりも友人達のほうが鋭い。幼馴染の一線を越えて向かい合う二人を、一気に見 抜いたのはさすがお年頃のなせる業である。まぁ、それも、そうなる前から夫婦だ連れ合いだとか らかいをくれていた彼らなので、意外にすんなりと受け入れられた。

とにかく、望美は今夜、恋人という身分の男の人と一つ屋根の下で過ごすのである。それも、双方 の両親合意の下で――結果論だが。




「お帰りなさい」
「おう」


帰ってくる頃合を見計らって有川家の玄関の前に立っていると、将臣は大きなスポーツバッグを左 の肩に担いで帰ってきた。茜の色はさらに深まり、東の空にはもう星が輝いている頃合である。

昼間とは趣を変えて伸びる影と、逆光で黒く塗りつぶされたように将臣は立っている。シルエット だけでも分かってしまうほど、彼はバランスの取れた体格をしていた。単に背が高いというだけで なく、ちゃんと筋肉がついている。肩のあたりにはもう少年の脆弱さはなく、そこから伸びる腕や 、一歩一歩近付いてくる足には大人の気配を纏っていた。


「ただいま」


そう言いながら頭をくしゃりと一撫でしてくれる。僅かな動作の中に嗅ぎなれた匂いを感じ取り、望 美はくん、と鼻を鳴らした。


「海に行ってたの?」
「うん?ああ、潜りにな。そろそろシーズンも終わるし、今日が潜り納めかもなぁ」


呑気な会話を交わしつつ将臣は家の鍵を開けた。軽い手ごたえのあとに続いて玄関を入っていけば 、そこにはやはり見慣れた、代わり映えのしない景色が広がっている。有川家は広い。とにかく広 い。庭に蔵と温室がある時点でかなりの規模だと分かるのだが、家そのものも結構な広さなのだ。


「将臣君、荷物片付けてきちゃいなよ。その間に何かお茶でも淹れておくから」
「ああ悪ィな、サンキュ」


彼の余裕っぷりを見ていると、そわそわしているのがバカみたいに思えてしまう。こっちの緊張と か混乱とか、複雑さなんて、なんとも思っていないのだろう。そうなのだ。将臣は聡いくせにどこ かニブチンなところが昔からあった。

勝手知ったる有川家のキッチンを借りて、適当にコーヒーでも淹れてみる。望美はこの後カフェオ レにしてしまうけれど、将臣は砂糖もミルクも入れずにがぶがぶ飲んでしまうのだ。こんな些細な ところでも、ちょっとした劣等感を感じるのは、いささか過敏すぎやしないか、と一人で百面相を 呈してしまう。


「望美?なに変な顔してんだ?」
「まっ・・・・・・将臣君!気配消さないでよ!」
「んなつもりねぇよ。お前が気付かないだけだぜ」
「どっちにしろ一緒でしょ!」


望美の苦し紛れの言葉を受け取って、少々呆れ気味にお前ね、と呟く。対面式のキッチンから黒々 とした液体の入ったカップを受け取って、将臣は改めて望美を見た。自分の家の、ありふれた台所 なのに、彼女が立つと一味ちがって見える。


「へぇ・・・・・・」
「あ、先にお風呂沸かす?シャワー浴びたいでしょ。それともご飯食べちゃおうか?」


振り向いた望美が出会ったのは、腹を抱えて声を殺して笑っている姿の将臣だった。首を傾げて何 と聞いても笑っているばかりで何一つ答えてくれない。苦笑しているのか嬉しくて笑っているのか 、望美のいる位置からでは分からない。答えてくれないことにやや憮然としてしまった望美に、将 臣は言う。


「それ、新婚さんのセリフ」
「なッ・・・・・・!」
「お風呂にする?ご飯にする?・・・・・・それとも、ってヤツ」
「そそそそんなんじゃないよ!」
「俺は、三番目がいいけど?」
「・・・・・・っ!」


この男は、と顔に書かれていたのだろう。将臣は笑いが引っ込みきらない表情のまま、すばやい動 作で望美のそばまで来ると、あっという間に腕の中に閉じ込めてしまった。

落ちていない、海のにおいに混じって、将臣の匂いがした。この香りは望美を安堵させてさらに不 安にさせる。幼馴染に不安、なんてとんだお笑い話だが、そうなってしまうのだ。相手が将臣と言 うだけで。

当たり前に傍にあったこの熱や形や、香りがなくなっていた時間がある。

あのときの、ぽっかりと空いていた穴はどうしたって埋まらなかったし、埋められなかった。埋め ることが出来るのは誰でもなく将臣の他にいなくて、やっと再会できたと思えば彼は風のようにさ らりといなくなってしまう。

そのたびに、何度引きとめようと思ったことか。引き止めても聞くような人じゃないと分かってい たから口には出さなかったけれど。

きゅうと将臣の背中に回った手が、自然と力をこめる。それに応えたかのように、望美の顔を持ち 上げて、形のいい唇が降ってくる。瞼を閉じる直前、望美が見たオリエンタルブルーの瞳はとても 柔らかで暖かな熱を湛えていたように思う。


「さっきの、取り消し」
「え・・・・・・?」


ひときしり、唇を合わせた後、将臣はぽつりと言った。腕の中の望美を放す様子はない。


「やっぱ、一番目にしておくわ」
「え、どうして」


――一番目と三番目が、一気に叶えられるだろ?




望美の頭突きが将臣の顎にクリーンヒットするのは三秒後。



*fin*












☆☆☆あとがき
キャラちげぇ!
えー。静岡オタクの会でもらった宿題です。お題は「風呂」
……まったく関係ないじゃん……orz
軽め軽めと言い聞かせて書いたら二人のテンポが良かったのでもういいです。
しかしお題とかけ離れたな!
いやほんと、あいすいません。修行するので探さないでください。やっぱり探してください。