――あぁ、頭ぐるぐるしちゃって逃げるしかないわ
Escape! Ver.将臣
それを見てしまったのは全くもって不幸としか言いようがない。
見るつもりもなかったし、もちろん見たくなかった。
忙しなく行きかう人の波を掻き分けるように、望美はくるりと踵を返し一目散にその場を後にする。
長い藤色の髪は本人の動きに従ってふわりとなびき、先日買ったばかりのパンプスは走りにくくて仕方ない。
けれど、今はそんなことにかまかけてる場合じゃない。
――と、とりあえずどこかに避難・・・・・・
慌てる頭は抽象的な指令を出して両足を動かす。
鼻の奥が酸っぱくなって、ぎゅうと目頭が熱くなるのはまだ早い。
――どっか・・・・・・
その、小さな背中がなぜか自分と反対方向に、むしろ遠ざかっていくのをこの混雑の中で見つけ出したのは将臣。
それは目敏いという一言を優に超えてしまう。
さすがは元・還内府といったところか。
乱暴に動き出した彼に上がる非難をそよ風のように聞き流して、将臣は追いかけた。
こちらの世界に帰って来てもう一年以上たってしまった。
思い出は薄れるどころか濃密さを増して、それは珠玉の部分を磨き上げてこの世に二つとない宝にする反面、
凄惨な場面が血のにおいを濃くして夢に現れる。
しかし、いつでも将臣は望美の変化に気付いて驚くほど直球に聞き出したりしてきた。
――なんかあったのか?
――悪い夢、見たみたいだな。
望美は決まって言葉を濁そうとするのだけれど、将臣はそれを許さなかったし、全部話してしまった後は肺から悪いものが抜け出たように
すっきりするのだ。
それは、敵将同士だった二人だけがわかる感情。
他の誰でもいけない。
話を終えた後は、いつもいつも痛いくらいに抱きしめて、頭を撫でて、瞳を覗き込んで将臣は言った。
――頑張ったな
濃紺の瞳が緩んで、双眸に自分だけが映っていることを自覚すると、うれしい反面恥ずかしくなる。
そしてその後はやさしいキスをしてくれる。
逆の場合も然りで、望美は将臣の広い背中を、想いが伝わるようにと強く抱きしめて暖かな体温を頬に感じる。
二人は幼馴染だけれども、幼馴染ではなくなった。
だから、こんな場面に出くわすと処理能力が追いつかない。
見事大学が無事に決まり、卒業式を終えた春休み。
デートしようと何となく決まった。
それも、いつもお互いの家の真ん中で待ち合わせするのはつまらないからと、わざわざ駅前の花屋で待ち合わせることにした。
往来の平均年齢が若干低い気がするのは、どこの学校も休みに突入したから。
元クラスメートからは「結婚式には呼んでくれ」とからかい混じりの別れの挨拶をもらったのはつい先日のことだ。
望美はその言葉を思い出して、一人で思い出し笑いを浮かべながら、決めた時間より10分ほど遅れて
――将臣はいつも20分くらい遅刻するので――花屋に到着しようとして、いた。
そして見てしまった。
「なんで・・・・・・逃げちゃったんだろ?」
とにかく今まで来た道を引き返して、咄嗟に入ったファーストフードのお店でようやく自分の行動を分析し始める。
目の前には湯気を上げる紅茶。
ミルクを入れて、砂糖を入れて、マドラーでかき混ぜるとマーブルが一瞬で白濁の茶色になった。
「・・・・・・」
将臣が、笑っていた。
パンプスに合わせて買った濃い目の色落ちジーンズは今日初めて下ろした一本だ。
将臣が、楽しそうに笑っていた。
髪の毛も、念入りにセットしたのに走ったせいで全部台無しになってしまった。
溜息をついた代わりに紅茶を一口含むと、視線を通りに流す。
通りに面したカウンター席で、望美はバックからポーチを取り出すと、コンパクトを開けて口元を確認した。
もともと不器用なのも手伝って、化粧は得意ではないけれど、今日は久しぶりのデートだからとグロスを塗ってみた。
でも、全然子供っぽい。
溜息をついて時計を見れば、約束の時間を30分も過ぎている。
携帯も鳴る気配がないし、グロスを塗りなおしてからどうしようと再び外に眼をやると、ちょうど――
「あっ!」
「の、望美っ!」
将臣だ。
将臣がこちらをちょうど硝子越に見たところだった。
店の自動ドアを探している隙を突いて、望美はスプリングコートとバッグをやおら掴むとこれまた一目散に逃げ出したのだった。
「おい、望美!」
自分が入ってきたドアと別のドアから走っていく彼女の背中を追いかけると、どうしたどうしたと視線が集まる。
将臣自身はひどく無頓着であるが、彼は黙っていてもかなり人目をひきつける容貌の持ち主だ。
背の高さ、引き締まった双眸は頼りにしてしまいたくなるし、すうと通った鼻筋が彼の精悍さを引き立てる。
そんな男が女を追いかけてあまつさえ大声で呼んでいるのだ。
これで注目を浴びないほうがおかしい。
けれどもやっぱり将臣は無頓着で、店を出て行った望美を追いかけるのだった。
「の、ぞ・・・・・・望美!」
「わ!ちょ、来ないで!」
望美がいくら走っても、足の長さが違うし、はいている靴もパンプスとスニーカーでは勝手が違う。
それでも望美は捕まるまいとわざと人ごみの中を行き、時にはくらませるように細い路地に入る。
その機敏な様はなつかない猫がちょろちょろと逃げ回るようだが、相手が将臣では叶うわけもない。
「おい!」
軽く息を弾ませただけの将臣に対し、ついに腕を掴まれた望美は大きく肩を上下させて呼吸を整えようと、
言葉を返す様子もない。
「こら、望美!」
「やっ!」
それでも身を捩ってさらに逃げようとするので、業を煮やした将臣は力任せにぐいと引きつけ、路地裏の壁に押し付けた。
「なぁ、俺なんかしたか?・・・・・・なんで逃げるんだよ」
「・・・・・・・」
こんな状況に陥っても、むうと黙り込んで視線を斜め下にやったまま。
思わず将臣は大きな溜息をついた。
思い当たる節はないし、今日くらいはきちんと時間通りに待ち合わせ場所にいた。
なのにこの仕打ち。
「望美、黙ってちゃわかんねぇって」
「・・・・・・・」
「なぁ、何で俺から逃げるんだ?もうイヤになったか?」
そう問うと、ただ望美はやはり下を向いたままふるふると頭を動かし、ぎゅっとコートを握った。
「わかんない」
「は?」
「わかんない」
「だから、何が・・・・・・って、まさか、何で逃げるのかわかんねぇってか?」
幼馴染の勘のよさは恐ろしい。
見事な指摘に望美はこくんと頷き、ようやく顔を上げた。
走ったせいで白い頬が柔らかく紅潮し、呼吸が整いきってなく酸素が不足しているのだろう、新緑の瞳が潤んでいた。
じっと見つめられると、将臣の脳裏に全く場違いな場面がリフレインしてきて、眼を逸らしたくなる。
「ま、将臣君こそ、なんで追いかけてくるの!」
「お前が逃げるからだろ」
「だって、さっき女の人と、な、仲良く話してたじゃない!」
「はぁ?」
思い切り間抜けな顔をしたのもほんの一瞬のことで、聡い頭が記憶をしばし引き戻す。
望美を待つ間、キャッチの女性が面白おかしく話しかけてきたのに思い当たり、あぁと納得した。
一つの糸口が見つかれば後は簡単で、こんがらがった愛しい恋人の行動が全部わかってしまう。
そうして、らしくもなく相好を崩すのだ。
「笑わないでよ!って、何で笑ってるのよ!」
「わりぃ・・・・・・ははっ、お前、何か勘違いしてないか?」
「へっ」
「あぁ、違うな・・・・・・やきもち、妬いてんだろ」
してやったりの将臣は、望美の体を甘く抱きしめる。
腕の中でわあとかひゃあとか聞こえてきた気がするけれど、そんなものは聞こえない振りを通す。
「まま、将臣くん!」
何とか顔を起こした望美が見たのは、えも言われぬほど柔らかく笑んだ彼の表情で、頬が、
けして走ったことを原因にするものではなく熱くなるのを感じた。
――卑怯だよ・・・・・・
こんな顔をされたのでは反論が出来ないではないか。
次いで振ってきた唇を受け止めながら、望美は頭の隅で思う。
「イチゴのにおいがする」
唇を離した後に、将臣が唐突に言った。
望美がグロスの匂いだよと教えると、彼はゆっくりと何かを含んだ笑顔を浮かべた。
「俺、いちごってすげー好き」
*fin*
☆☆☆☆☆☆あとがき
わ〜無駄に長い上に尻切れトンボですいませ・・・・・・!
逃げる神子シリーズ一回目はまさおです
じゃんはスカートよりジーンズ、レモンよりミルク派です。(どうでもいい
それにしてもまさおが勘よすぎる。
伊達に幼馴染じゃあ・・・・・・ない、か(くっ