この痛みは誰も知らない

――知らなくていい



Can’t you see my distress?



ふと立ち止まって振り返ると、彼女はそこで変わらずに笑っていた。顔なじみのクラスメイトに囲 まれて、楽しそうに他愛のないおしゃべりをしている様子は、あの時空に行く前と全く変わってい ない。毎日やって来る教室の一角は、そこだけ花が咲いたように女の笑い声がしていた。


「有川?」


昼休み、購買へ行こうと誘ってきた同級生の声にああと一つ頷いて将臣は廊下へ出て行った。ざわ めきが教室から漏れてきて、一日を拘束されてしまう生徒の、ふとした休みはとても楽しそうだ。 何気ない拍子にぼうとしてしまう彼を、周りはなにやってんだと軽く受け流して外へと連れ出して くれる。それが、どんなに有難いことか、言葉にしたって誰もわからないだろう――源平の戦もど きに巻き込まれてきたんだなんて、誰も信じやしない。





源平の戦もどき、としか形容できない。

確かにあの時空では源氏と平家が血を血で洗う戦を繰り広げていたし、その戦の真ん中に身を置い ていたのも事実だ。けれど、今、自分がいる世界の過去に遡ったわけではない。タイムスリップし たのではないのだから。この世界に怨霊なんてものはいないし、白龍なんていう龍神も信仰されて いない。


「はーっ・・・・・・」


でも、それも自分が知らないだけかもしれない、と将臣は思う。自分が知らないだけで、どこかの 地方では怨霊を恐れていたり龍神の信仰が厚いのかもしれない。けれど、やはり自分がいたのはこ の世界の過去でないことだけははっきりしている。もしも、過去だったならば、文献に還内府の三 文字が残っているはずだ。

けれど、その記述はどこにも残されていない。


「ねっみぃ・・・・・・」


ごろんと横になると硬いコンクリートの感触が直接背中に伝わってくる。視界一杯に広がる空は、 霞みがかった雲が青の生地に模様を作り出していて、頬を撫ぜてゆく風は冷たかった。

還内府と呼ばれていたのは他でもない自分だ。誰でもない、有川将臣という人物がかの平重盛にそ っくりだというのでそう綽名されていたのである。

その名前が重いと思ったこともある。その名前を与えられて良かったと思ったこともある。何しろ 、あの時空で今まで握ったこともない大太刀を振るい、肉を切り骨を絶ち、命を奪ってきた。体中 に受けた傷跡はこちらに戻ってきた瞬間に消えてなくなり、三年間、先を行ってしまったこの体も 元の年齢に戻った。

全部、リセットされてしまったのだ。飛ばされる前の自分に。

けれど、リセットされきれていない部分がある。


「――将臣くん?」


コンクリートを伝って誰か近付いてくるのがわかっていたけれど、将臣は敢えて体を起こしはしな かった。足音だけで誰が来たのかわかっていた。

上半身をかがめるようにしてこちらをのぞきこんでくる彼女の、長い藤色の髪が風にさらわれてふ わと舞う。それを、煩そうに耳にかけて新緑の瞳がじっと見つめてきた。紺色のブレザーの中に白 のシャツをきっちり着込んで、手には自動販売機で買ってきたお茶の缶を持っていた。


「よくわかったな」
「だって教室に戻ってこないんだもの。きっと、ここにいると思って」


今でも悪夢を見るときがある。

例えば、本気で自分を殺しに来る兵や、その兵を切り殺したときの最後の形相や、後ろの守りを任 せていた兵があげた断末魔や、目の前にいた兵の腕が吹っ飛んだときに噴出した血の熱さや。わぁ わぁと叫びをあげながら駆け回る戦場の匂いは、さっき嗅いだりんごジュースの香りよりも鮮明に 思い出せるし、口の中に広がる血の味は、さっき食べたパンの味よりもくっきりと覚えている。

本当に殺されるかもしれない、と思った回数は計り知れないし、平家の中で重要な人物になってゆ くほど危険は増していった。何が何でもお前を殺す、お前さえ殺せばこの戦は終わる、だから死ね と向かってくる兵は雄弁に瞳で語った。お前を殺せば、俺の手柄になる――それを片っ端から切り 伏せていったのは、この手だ。


「お昼休み、終わっちゃうよ」
「ああ、もうそんな時間か・・・・・・」


血にまみれた鎧は、唯でさえ重いのに、更に重たくなった。疲労が腹のそこに溜まってもう動きた くもないのに撤収のために動き回った。生きているものを確認して、傷ついた者を労って、それか らやることはたくさんあった。

はじめ、強くなければ生き抜けないと覚悟した。それから、強くなって、自分を拾ってくれたこの 人たちを生き延びさせようと決心した。この身一つで出来ることなんて、それくらいしか思い浮か ばなかったのだ。


「ほら、もうすぐ授業始まるよ?」
「わかってるって」


けれど、悪いことばかりじゃなかった。確かに、その日食うものにも着るものにも、寝るところに さえ困ったけれど、かけがえのない友人もいたし自分を信頼してくれる幼い子もいた。今でも、源 氏が正しいとは思わないし平家のやり方が良かったとも思わないが、それでも、戦から離れた日常 は珠玉となってこの胸にある。

テレビから流れる日本古来の楽器の音に敏感に反応するし、父親の晩酌に付き合う酒の味には思い 入れもある――もっとも、将臣が飲んでいたのは濁り酒だったし、相手はもっと若い男だったけれ ど。古文の授業で取り扱う平家物語の一節は誰よりも身近に感じるし、身のこなしも、周りから驚 かれるほど俊敏になっていた。

何かが変わったのはわかる。わかるが一体何が変わったのか、自分でも上手く説明できない。


「将臣くん!そうやってサボろうったってそうはいかないからね!」
「はいはい・・・・・・ったく、お前はかわんねぇなぁ」


自分だけ変わってしまったわけではない。今、目の前で空を背にしてぷんすか怒っている女もまた ――変わったのだろう。自分とは立場もその重みもまったく違うけれど、彼女も戦の血腥さの中に いた。小さな手で直刃の剣を振り回して、薄い背中で兵を引っ張ってきた。よく通るその声で叱咤 して、やはり、いやと言うほど血を見てきたのだろう。

朗らかに笑うその顔は、幾度涙を流したのだろう。柔らかい手に豆を作って、それでも剣を捨てる ことなく、将臣と同様に己を鍛え続けてきたに違いない。神子と呼ばれて、その重圧に押しつぶさ れそうになっても、きっと歯を食いしばって切り抜けてきただろう。

そばに居て、守ってやれたわけじゃないから、将臣は知らない。


「――もう、動こうとしないんだから」
「メシ食ったら眠くてしかたねぇんだよ」


引っ張られていた腕は急激に自分の腹に落ちる。片腕を枕にしてからからと笑う将臣に、呆れた溜 息を一つついて、彼女は隣に座った。

さや、と風が一つ流れた。


「将臣くん」
「なんだよ」
「思い出してた?」
「まぁな」


隣に座り込んだ彼女は、なんも前触れもなくそう聞いてきた。将臣は、やはり空に視線を合わせた まま頷いた。

どうしてわかるのだろうと不思議になるときがある。悪夢を見た朝、ふと糸を引かれるように意識 がゆく瞬間、フラッシュバックに等しい記憶の蘇り。その都度口に出すようなことはしなかったけ れど、彼女にはわかるようだ。そして、無理に話をさせるわけでなく、聞きだすでなく、ゆっくり とそうと頷くのだ。元気にしているかなと呟きもしない。


「忘れろってほうが無理だろ」
「・・・・・・そうだね」


見上げる空は広くて、いつだったか向こうで見上げた空と同じ色をしていた。将臣はゆっくりと息 を吸って、勢い良く体を起こした。

記憶に囚われているのは好きじゃない。


「・・・・・・将臣くん?」
「そろそろチャイム鳴るな」


うん、と彼女は頷き返すけれど、将臣同様立ち上がる気配はない。持ってきたお茶の缶に口をつけ てふうと一つ、息を吐き出す。

フェンスの向こうに定めた双眸はガラス玉を填め込んだように綺麗だ。滑らかな曲線を描いて首に 伸びる頬のラインは少女と女の境目の危うさを持っていて、華奢な肩が少しだけ上下する。きっと 、この世界で一人だけの共有者だ。互いの立場はいろんなことを許してはくれなかったけれど、む こうで守れなかった分、こちらで守ってやろうと思う。

どうしても諦められなかったただ一人の女。

彼女だって悲しい思い出も辛い思い出も、たくさん持っている。将臣以上のものも、同等のものも 。身を裂かれて焼かれるような、あの痛みを知っている。

――この世でたった一人の、共有者。


「・・・・・・望美」


ふと名前を呼ばれた彼女は、振り向いて間近にあるオリエントブルーの瞳に少しだけ息を呑んだ。 そして、目を閉じる間もなく合わされた唇に何も出来なかった。


「望美」


すぐに離れていった将臣の唇は、再び彼女の名を紡いで、それからどちらからともなく唇を重ね合 わせた。風が吹きぬける、学校の屋上はだだっ広くて、頭の上にはあの時空と同じ空が広がってい た。



*fin*












☆☆☆あとがき
オチねぇ!
コンスタントに波が来ます、兄貴。好きです。
迷宮というよりか十六夜EDイメージです。
しかしサボってばっかいた高校生のころを思い出しました。時は流れるものよの。