4:記憶の曖昧さ

成歩堂がいつものようにその喫茶店を訪れたとき、いつもと変わらずがいて、いらっしゃいま せと言ってくれた声もかわりないのに、なぜだかふとした違和感を覚えた。

(あれ――)

真宵は何でもトノサマンの再放送を見逃せないとかで、後から追いかけると言っていたので今日は 一人である。定位置に座って毎回のオーダーを頼んだあたりで違和感の正体を突き止めた。

(笑ってない・・・・・・?)

そう、いつもだった静かにほころぶみたいに笑って出迎えてくれるのに、今日の彼女はぎこちなく 接客するのだ。感心するくらい滑らかに動く手元もなんだか危なっかしい。体調が悪いのかなと思 ったけれど、女の子にいきなりそんなこと聞いていいのかと躊躇った後、結局聞いてしまった。


「そういうわけじゃないんですけど・・・・・・今朝見た夢が悪くて」
「夢・・・・・・か」
「子供みたいでしょう?」


少しだけ、ほんの少しだけ自嘲するように笑った彼女の目許にはくっきりとクマがついていた。感 情を豊かに表現する涼やかな瞳は疲れの色がかげりをさしていて、白のシャツに包まれた腕が動い てコーヒーを差し出してくれる。
ありがとうといいながらを見る。茶色い髪は顎の辺りで揃えていて、白い頬は滑らかだったけ れど、やはり隠しきれていない疲れが滲んでいるのがわかる。悪夢を見たとのだという彼女は、自 分でも無意識の溜息をついた。


「夢って、どんな?」
「それが、覚えてないんですよ」
「覚えていない?それなのに眠れなかったの?」


いつもより少しだけ手際悪く淹れてくれたコーヒーは、それでも普段の味を損なうことなく成歩堂 の喉を通り過ぎてゆく。立ち上る独特の香りに鼻腔を刺激されて、困ったようにを見ると、秋 野もまた困ったように笑っている。


「だから、子供みたいでしょうって。見た夢そのものは覚えていないのに、夢見の感触の悪さだけ は嫌にはっきり覚えていて、眠ったらまた同じ夢を見るんじゃないかって時、ないですか?」
「ああ、そういうこと」


そんな経験なら一度や二度ではない。特に、審理の雲行きが怪しいときなんかはしょっちゅうだ。 そして、どうしても落ち着かなくて今まで集めた証拠品を無意味に並べてみたり、解剖記録を読み 直したり、そんなことをして時間をやり過ごす。
そういうと、は「なるさんも大変ですねぇ」とのんびりした口調で相槌を打った。

ふと会話が途切れて、何を言おうか考える。こういうとき、何を言おうか考えていて、それでも言 葉が出てこなくて、そして時間が過ぎていって相手が何か言ってくれないかなとふと思う。相手は 何も言わず、やっぱり時間が過ぎていって、そうして、時間が経てば経つほどなぜか口を開きがた くなるのだ。別段、気にも留めない沈黙はすわりを悪くして降ってくる。

だが、こうして言葉少なにが立てる小さな音に耳を傾けているのも悪くない。雑多としていく 日々では、こんなにゆっくりしているのも貴重な時間だろう。


「ねぇなるさん」
「なんだい?」


カップとソーサーを棚にしまい終わったは、成歩堂に背を向けたまま話しかけてきた。口に運 びかけていたコーヒーを寸前でおろし、問い返すと、やはりはこちらを向かないまま続ける。


「御剣検事って有名な人?」
「・・・・・・有名といえば有名、かな」


そう、とは頷き返し、どこか考え込むような姿勢をとった。どうしたのと声をかけるのはなん だか憚られて、誤魔化すようにコーヒーを飲んだ。上手く聞き出せばいいのか、それともそっとし ておけばいいのか。


ちゃん、御剣と知り合いだった、とかないよね」


考えた末に出てきたのはありきたりな質問で毒にも薬にもならない。その証拠に、は振り返っ て片眉を上げて苦笑している。


「まさか。数学まみれのしがない大学生が、どうして検事さんと知り合うの」
「だよね」


ふっと軽く笑うが、成歩堂も不思議に思うことを止められそうも無かった。先日の、あの事務所の 御剣は変な質問を彼女に向けていたのだ。まるで、自分の記憶と摺りあわせをするように。小学校 から彼のことを知っているのである。その奇怪さがわからないわけもなく、かといって御剣本人に 問いただすには微妙だったのでそのままにしているが。

あの時、が帰ってしまった後に真宵は「ミツルギ検事がナンパしたよなるほどくん!」と目 玉が零れ落ちそうなくらい両目をまん丸に開けていっていたが、その驚きは自分のことのように思 えた。確か、は理学部数学科の人間である。いってみれば理系ど真ん中の人種で、それこそ犯 罪でもやらない限り法廷とは無縁――大半の善良な一般市民もだが――である。
御剣が、一方的にを知るというシュチュエーションと言うのは、そう考えるとかなり限られて くる。


「そういえば、この店の上に住んでるなんて初めて聞いたな」
「ああ、マスターって実はあたしの叔父さんなんですよ。で、空き部屋があるから住んだらって言 われて」
「へえ・・・・・・全然知らなかった」
「知ってどうするんです、あたしのことなんか」


また苦笑交じりに言われて、成歩堂ははっとするしかない。彼女の言うとおり、のことを知っ てどうしようと言うのだろう。彼女は、ただの喫茶店のバリスタで、自分はそこの常連だという関 係でしかないのに。


「いや、ほら、弁護することになったときとか、知ってるといいでしょ」
「弁護されるようなことしません、って!」
「あはは〜そうだよね」


ようやく、に笑顔が戻ったあたりで慌しくドアが開き、真宵が息を切らせて店にやってきた。 三人で話すうちにどんどん話はずれていって、成歩堂は、ちくりとした胸の痛みなんか忘れてしま った。






「・・・・・・」


部屋に帰って、今日も一日立ちっぱなしだった自分のふくらはぎは正直で、無言のままベッドに身 を横たえた。四角い蛍光灯をじいと見上げながら、昼間の成歩堂との会話を思い起こすと、やっぱ り、この間会った御剣検事との会話を思い出すのだ。

(なんで・・・・・・あの人)

知っているのだろう。あれは、質問と言うより確認に近い聞き方をしていた。それから、このあた りに住んでいると言った時にふと胸を過ぎった疑問がある。


(いつから・・・・・・どうしてここに住んでるんだっけ・・・・・・?)


人にとって、引越しと言うのはある種一大イベントみたいなものだから、それを覚えてないという のは限りなくおかしい。おかしいのに、自分は覚えていない。

ただ、叔父が空き部屋があると言ったら母親は二つ返事で引越しを決めてしまい、そしてここにい る。実を言うと喫茶店のバイト代は家賃代わりみたいなもので、余ったら遊びに回したり貯めたり している。そういうことの繰り返しが、少なくとも一年くらい続いているはずだ。
大学の友人は駅からこれだけの距離でセパレートだったらこのくらい、と教えてくれるけれど相場 そのものが判らないにはピンとこない。大家との関係で身内割引が利いているのか、それとも ぼったくられているのか――話の口調からすれば前者だろうが。

(・・・・・・なんでだっけ・・・・・・?)

自分の記憶はすごく曖昧で、ふわふわと綿飴を手に持っているように、掴んだと思ったその傍から 溶けてなくなってしまう。べたべたする糖分の感触が気持ち悪く感じられるように、今のには 、どうしてここに住んでいるのかという、ひどくシンプルな疑問に答えられないことが気持ち悪か った。母親にでも電話して聞いてみればいいものの、そうすることはなぜだかいけないことだと思 う。

(なんで・・・・・・)

それから、「御剣怜侍」だ。
この四文字を、新聞やネットではなく、何かで見た覚えがある。つらつらと読み飛ばしてしまうよ うな読み物の中ではなく、何か、とにかくちゃんとしたものの中で、だ。でも、会ったのはどう考 えても二回だけで、おかしいと思う違和感はあっても正体がつかめない。

自分の記憶を探ってるうちに暗くなっていく視界に逆らうことも出来ず、ああ今日は寝不足だった んだと思いつつも、睡眠の欲求に勝つことは出来なかった。